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このページには市立函館博物館の所蔵資料を、許可を得て転載しております。
函館市立図書館所蔵資料についてはこちらにあります。
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開港後間もない文久3年(1863)の頃の箱館港を描いている。
正面に箱館山を配置し、右手前に大きく箱館港が広がる。湾口には弁天台場があり、山裾に広がる町と少し離れた画面左下に五稜郭が描かれているが、純日本風の城になっている。
港内には、多くの和船に交じってロシア・アメリカ・イギリス・オランダの旗を掲げた蒸気船が描かれている。
箱館戦争が始まっていた明治元年・二年の頃も、戦闘がない時には、このように静かな情勢であったことであろう。
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明治2年(1869)5月11日の箱館市街地総攻撃の様子を描いている。
箱館山には、寒川方面(画面右側)から奇襲上陸した新政府軍の旗が翻って、箱館山を守備していた新撰組と戦闘になっている。
港では弁天台場で、旧幕府軍の回天・蟠竜の艦隊と新政府軍の軍艦の間で戦闘が繰り広げられている。
土方が出陣した七重浜方面(画面左下)では、亀田川を挟んで激しい戦いが続けられている。
箱館の市街地では、街中の外国領事館は戦闘の巻き添えを避けるため、各国の国旗を挙げている。
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土方歳三は、新撰組では近藤勇を補佐して力を尽くし、幕臣に取り立てられた。その後も緒戦の「鳥羽伏見の戦い」から「箱館戦争」まで戦い続けた。明治元年(1868)10月に箱館の五稜郭を占拠後も、松前・江差を攻略し、道南一帯を平定した。
旧幕府軍は道南平定後に「入れ札選挙」を行い、土方はその中で陸軍奉行並に就いている。
明治2年5月11日の「箱館市街地総攻撃」では、旧幕府軍幹部としてただ一人戦死し、後世に名を残している。戦死した土方歳三の埋葬地には諸説あるが、未だに不明である。
北斗市二股や函館市川汲峠に箱館戦争の遺構が残っている。享年35歳(文中には38歳とある)。俳号は「豊玉」。
【画中の文】
元新選組副長 陸軍奉行(並がない)土方歳三 行年三十八
土方ハ武州八王子ノ産(うまれ)ニシテ 近藤ニ従(したがい)テ京師(きょうし)ニ在(あり)テ尽力(じんりょく)ス
生質(せいしつ)英才ニシテ飽迄(あくまで)剛直ナリシカ 年ノ長スルニ従ヒ温和ニテ 人ノ帰スルコト赤子ノ母ヲ慕フガ如シ
退京ノ後奥羽ニ英名ヲ止メ 蝦夷島ニ渡リ縷々(るる)美名ヲ顕ス
明治二年五月十一日箱館瓦解ノ時 数兵ヲ率テ猛虎ノ群 羊ヲ駆テ荒走スルカ如ク無二無三(むにむさん)ニ奔(はしり)巡リ終(しまい)ニ乱弾ノ中ニ狙撃セラレ 馬上ナカラ討死ス
三軍(さんぐん)ノ衆痛惜ノ聲没ス 当世ノ豪傑ト謂フ可シ
(※)文中カッコ内の、読みガナは碧血会編集者が付けた。
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明治2年(1869)の戦いを描いた錦絵。
作者は月岡芳年という人物で、歌川国芳夫門下に学んだという。赤を多用して凄惨な場面を描いた錦絵は、「血みどろ絵」といわれ、一世を風靡した。明治に入ると、洋風表現を取り入れた迫力のある画風を開拓し、戊辰戦争や西南戦争などを扱った、報道画を多く描いた。
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箱館方面の戦況を馬上から見ている、榎本武揚と松平太郎が描かれている。作者は右田年英という人物で、月岡芳年の門下に学んでいたが、洋画を学ぶなど幅の広い画風を身に着けていた。
武者絵・役者絵・美人画・俗画など、多彩なジャンルの錦絵を製作するほか、新聞や雑誌の挿絵なども手掛けていた。
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明治元年(1868)11月15日の旧幕府軍と松前藩の戦闘の様子を描いたものである。この戦いで、松前法華寺の僧、三上超順が壮烈な戦死を遂げている。
この絵は箱館戦争から33年後の明治34年(1901)に印刷されたものである。絵の下側に江差招魂社の絵と戦死者の名が記されていることから、松前藩士犠牲者の供養のために作られたものと思われる。画作・印刷は、浅草の宇田川安高である。日露戦争や、関東大震災による浅草十二階の花屋敷への延焼などを題材とした多色石板の作例が残されている。
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(函館碧血会・事務局)