【大岡助右衛門の似顔絵 経王寺所蔵】
幕府脱走軍の戦死者を弔った話でまず出てくるのは柳川熊吉翁だが、一緒に行動した大工の棟梁、大岡助右衛門のことは函館ではあまり知られてないので調べてみた。
大岡助右衛門は五稜郭の工事のために函館に来たのだが、土木ではなく建築工事(函館奉行所など)を請け負った中川組の工事肝煎(現場責任者)であった。当時、柳川熊吉は五稜郭の土木工事の人夫を手配していたので仕事上でのつきあいもあっただろう。
箱館戦争後の明治4年には開拓使の札幌本府の建設工事施工のため270名の職人・人夫と共に札幌に移動した。ちなみに明治4年はじめの札幌の人口は624人だったのだが、その年に中川組が東京、岩手、越後などから集めた職人・人夫の合計は964人だったそうなので、札幌を拓くのがいかに大規模な工事だったかがわかる。
大岡は酒とばくちが好きで人情にあふれ、人を使うのがうまい親分で、柳川は酒は飲まないが賭場を仕切っていた親分だったので、大岡と柳川はおそらく「助さん、熊さん」と呼び合うような仲だったのだろう。その友情は生涯にわたって続き、大岡の死去後、分骨して函館の柳川の墓に入れたという話がある。また熱心な日蓮宗の信者だった大岡の影響で柳川も日蓮宗に改宗している。
大岡助右衛門は明治15 (1882) 年、札幌豊平の自分の土地や労働力を提供して日蓮宗経王寺を建立するが、1888年には引退し経王寺に身を寄せ、明治35 (1902) 年 5月、67歳で亡くなった。
私は2020年7月に札幌市豊平区の経王寺を訪ね、大岡家の墓や納骨堂をお詣りした。お寺には観音堂があり、そこには大岡助右衛門とお寺のかかわりが張り出されていた。そこにお寺に伝わる大岡助右衛門の似顔絵もあったので、お寺の了解を得てここに掲げる。(本人の顔を伝える絵・写真は今まで見たことがなかった)
経王寺は札幌の地下鉄東豊線「学園前」役を下車し、5分くらい歩いたところにある。碧血碑に関心のある方が札幌に行ったときには、ぜひ経王寺で手を合わせてほしい。
なお近くの中島公園には大岡助右衛門が采配をふるった豊平館もあり、その前には開拓につくした大岡助右衛門ほか4人の偉人を顕彰する「四翁表功之碑」もある。
大岡の資料は少ないが、大岡と遺体埋葬について触れた最初のものは「函館工匠小伝」かもしれない
函館工匠小伝より
(村田専三郎 昭和18年編集 昭和33年刊行 函館市中央図書館所蔵 原文カタカナ)
天保七年生れ生国を審らかにせざるも江戸より下る安政年間五稜郭築造の砌中川源左エ門配下棒頭として尽力す 明治元年中川組の引き上げの後も業跡を墨守せしが、開拓使本庁の札幌に移るや命により本拠を幌都に転ぜしも函館の主なる工事は諸職その指揮下にありたり 明治二年脱走軍の遺骸は柳川熊吉翁の義心により碧血碑に留魂する所なりと専ら伝えられるるも実は助右エ門檀那寺実行寺庵主を説き尽力を致せし所なり
札幌石の切鑿、豊平館、初期の道庁庁舎等皆その工事たり
明治三十五年五月二十一日死亡す 生前豊平に経王寺を建立し寺域並に一切の財貨を寄進せり 息長吉行を継ぎしも数年後架橋工事中不慮の墜死を遂げ家名断絶せり
以下に大岡助右衛門について、建築史家の遠藤明久さんの書いたものを紹介しておく。
おおおかすけえもん 1836(天保7)~1902年(明治35)
武蔵国久良岐郡大岡村(現横浜市)生まれ。
開拓使時代の札幌の代表的な建設業者。
生家は農家、江戸へ出て大工となる。
1858年(安政5)、五稜郭工事に際し、請負人中川伝蔵の大工頭として北海道に来て、後に登用されて中川組工事肝煎(きもいり)となる。
1871年(明治4)1月、開拓使の札幌本府建設工事施工のため、中川組組頭として、職人、人夫を率いて札幌に入り、札幌本陣ほかの建築を施工する。
同年末、独立して建設業を開業、たちまち頭角をあらわし、開拓使の多くの工事を施工した。
農学校寄宿舎、豊平橋、琴似兵村(一部)、豊平館、小樽入舟町波止場、幌内鉄道などで、収益は巨額に上った。大岡は、剛腹な性格で義侠に富み、よく部下を愛し、私財を恵んで惜しまなかった。
業界の第一人者として札幌請負人組合幹事となり、札幌区総代人にも選任された。が、豊平橋工事で嗣子を失い、また文盲のため部下に裏切られ、土木工事の失敗もあって、1888年、引退し、経王寺(札幌)で余生を送った。
箱館戦争の際、遺棄されていた榎本軍戦死者を、同地の侠客柳川熊吉と協力して収容、手厚く葬った義挙は有名である。(遠藤明久)
参考文献(函館市中央図書館で閲覧可能なもの)
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