函館碧血会

21.箱館戦争・追悼 150 回忌の特集

箱館戦争・追悼 150 回忌の特集

― 旧幕府軍犠牲者の追悼慰霊祭、記念事業 ―

1.事業の概要

 平成三〇年という年は、明治二年に箱館戦争が終って「百五十回忌」を迎える年となります。

 函館碧血会では、これまで「北の大地で義に殉じた旧幕府軍犠牲者」の慰霊を、碧血碑前において毎年絶やすことなく続けて参りました。これもひとえに、会員をはじめ支えて頂いた方々のお力添えがあったものと心から感謝致しております。

 本年は「百五十回忌」の特別の年でありましたので、これまで行ってきました「碧血碑・碑前慰霊祭」はもとより、特別に記念行事として六月二十三日から二十五日にかけて、以下のとおり行いましたので、ご報告致します。

 六月二十三日(土)には「追悼記念講演会」を開催いたしました。本年は「百五十回忌」の記念の年にあたりますので、改めて会員はもとより市民レベルに、箱館戦争の経緯と碧血碑が建てられた意義、そして函館碧血会の活動状況の報告を実施いたしました。

 六月二十四日(日)には谷地頭の丘の碧血碑の前で恒例の「碑前慰霊祭」を行いました。本年は、翌日の「大法要」も予定しており、北海道東照宮のご協力によりまして「碑前慰霊祭」は、神式で行いました。その後、谷地頭町会事務所で「函館碧血会」の総会を行いまして、新しい年度の活動方針を確認いたしました。

 六月二十五日(月)は、実行寺において「箱館戦争・追悼百五十回忌、大法要」を営みました。「大法要」の後は、市内末広町の「五島軒」に移動しまして、「追悼百五十回忌記念集会」を実施いたしました。この記念集会では、「箱館戦争を偲び、碧玉の志士たちを語り継ごう」と、トークショーや吟詠慰霊、講談「箱館義士伝」などが披露され、盛会のうちに終了しました。

箱館戦争、追悼・百五十回忌記念集会「碧玉の志士たちを語るトークショー」で語る榎本隆充氏(右側)と土方愛氏(左側)。

2.「百五十回忌、追悼記念講演会」(6月23日開催)
(函館碧血会と函館市中央図書館が共催し、碧血碑の役割を詳しく解説。)

(1) 「追悼記念講演会」に 200 名が参加。

 函館碧血会は、六月二十三日(土)に「箱館戦争と碧血碑」をテーマに講演会を開催しました。この講演会は、函館市中央図書館TRCグループと「郷土の歴史講座」と共催で、同図書館の視聴覚ホールで行いました。

 当日は十三時三十分から約三時間に亘って三人の講師で行いました。会場は一五二名の定員ですが、入替もあり二百名以上の方が参加しました。会場には、補助イスを用意するほどの盛況のうちに開催することが出来ました。

 この講演会は箱館戦争が終って、百五十回忌となる平成三十年度の記念行事の一環として「箱館戦争と碧血碑」をテーマにして、碧血碑の歴史と函館碧血会の取り組みを紹介することを目的にしたものです。

 講演会は、三人の講師により行われました。最初はノンフィクション作家の合田一道氏が、古文書に残る「箱館戦争」について講演しました。二番目は「函館碧血会」から、「碧血碑 150 年の歴史」を、三番目には中京大学の檜山幸雄教授から「世界史的視点から見た慰霊碑の特徴」について講演を頂きました。以下に講演の概要を掲載いたします。

(2) 第 1 講座 ; 「古文書に見る箱館戦争」の連載を終えて。
ノンフィクション作家・合田一郎氏

 合田一道氏は、北海道新聞夕刊の地域情報版『みなみ風』に『古文書に見る箱館戦争』を約一年間連載していました。この連載を振り返って、古文書による研究の大切さを強調しておりました。

 この講座では、連載で取り上げた古文書のいくつかを紹介しながら、函館戦争の推移を説明して頂きました。本稿では、その一部を紹介させて頂きます。

 「蝦夷地という不毛の地を賜わり、北門の守りと致したい。」との文面です。榎本が蝦夷地・箱館を目指したときの言葉を開陽丸機関担当の小杉雅之進が『麦叢録』の中でこう伝えました。慶応四年、薩長軍は旧幕軍を朝敵として追討令を出しました。榎本はこれを撤回させ、旧幕軍をもって蝦夷地の開拓と守備を、国家のために尽したいと行動したのです。

 蝦夷地に到着した榎本隊は、箱館府知事宛てに嘆願書をもって峠下まで来たとき、箱館府兵の攻撃を受け箱館戦争が勃発しました。峠下の箱館府兵は、八王子千人同心隊出身者であり、いわゆる旧幕府軍同士で戦う羽目になったのでした。この様子を同隊士の『戦争之記』では「…親子の見さかいもなく散々にこそ逃げさりけれ」と、村民の混乱の様子が記されていました。

 明治二年正月を迎え、榎本は蝦夷地で初めて家族に手紙を書いています。そこには「一身をなげうってのことであり、もはやこの世でお目にかかることは難しい」との決意を示しています。

 最期に榎本はなぜ、新政府に協力する道を選んだのでしょうか。合田氏は連載の中でも、榎本の「誤算の道」として、三つの道を上げています。一つ目は蝦夷地の一部をもらい受けることが出来ると信じていましたが、拒否されて戦争に至ったことでした。二つ目は、戦後の処刑で「生かされてしまったこと」であり、三つ目には「その余生を鎮魂に」と考えていた所を、新政府の任用に応じてしまったことだといいます。

 榎本は獄中に「君恩に未だ報いず」と書き、その傍らに「国益あるいは国威」とあったといいます。武士として恥ずべき言動はとっていませんが、天皇政権に変わった今、国家という観点に立って報いるべきだと考えたのかもしれない、と合田氏は解釈しています。新政府入りした榎本は、対露領土問題を解決し、内閣が誕生すると逓信・農相・文部・外務等の大臣を歴任し、命がけの舞台を全力で乗り切って来ました。

 榎本が創設した東京農大のオホーツクキャンバスに「学びて後、足らざるを知る」という扁額が、残されています。合田氏は、榎本らしい含蓄のある言葉だといいます。

(3) 第 2 講座 ; 「碧血碑」風説の歴史。(碧玉の志士たちの百五十回忌)
函館碧血会 事務局次長・木村裕俊氏

 函館戦争は、明治元年の「戊辰の役」と同二年の「己巳の役」に分かれます。明治元年は、榎本軍が蝦夷地を平定支配しましたが、翌明治二年は、新政府軍が反転攻勢を強め、榎本軍は、箱館周辺に孤立してしまいました。

 新政府軍は、明治二年五月十一日を箱館総攻撃の日として実施しました。この戦いで土方歳三が戦死し、同十六日までに中島三郎助の千代ヶ岱陣屋が陥落し、旧幕府軍は翌十七日には降伏しました。

 箱館戦争の戦後処理は、新政府軍は招魂場を造営して犠牲者を祀りましたが、旧幕府軍側の戦没者は放置したままでした。生き残りの戦士は捕縛されるか逃亡して、遺体は収容されないままでした。

 この時活躍したのが実行寺の日隆師と大岡助右衛門、柳川熊吉らの市民でした。彼らの行為に敵味方は関係なく、赤十字思想や博愛主義に通じるものです。

 榎本武揚や大鳥圭介が明治五年に釈放された時、箱館戦争後の犠牲者が函館市民により収容され埋葬されたことを聞き、大いに感動したといいます。その後慰霊碑を計画するにあたって、終戦の地函館に建立することにしたといいます。

 明治八年五月、箱館戦争が終って七回忌の年に旧幕府軍の戦没者慰霊の石碑が完成しました。「碧血碑」と名付けられました、伊豆産の石材を使用し、東京で加工して函館に運び、組み立てました。

 碧血碑は高さ七メートルの堂々とした石碑です。石室の中には霊璽が祀られています。「戊辰戦争以来戦死者之霊璽」とあり、榎本の過去帳には東北各地の犠牲者二七八人、箱館戦争の犠牲者五三八人名で、合わせて八一六人名の名前が載せられていました。

 「碧血碑」の名前は大鳥圭介が中国の古典の「忠義を貫いて死んだ者の血は、三年で碧玉と化す」との言葉からとったといいます。碧血碑の裏面に建立の由緒が漢詩で表現されています。「明治辰巳の年、実にこのことがあった。山上に石を建て、以ってその志を表す。」とあります。持って回った言い方ですが、当時はこうした表現しか出来なかったといいます。

 碧血碑は函館市民に大事にされてきましたが、時には災難もありました。昭和三一年に金属泥棒が横行し、碑銘の「血」と「碑」の文字が盗まれました。回収時には潰されていました。しかし市民の力で昭和四三年にふたたび新しい文字を掲げることが出来ました。

 函館碧血会は明治八年の碧血碑建立の年から毎年慰霊祭を行ってきました。平成三〇年は百五十回忌に当たる年です。これを機会に記念行事を行う予定にしています。多くの方々のご協力・ご支援を期待しております。

(4) 第 3 講座 ;世界史的視点から見た日本の戦没慰霊の特徴
中京大学 教授・檜山幸夫氏

 講演者の中京大教授・檜山幸夫先生は、戦争記念碑とは、戦争への国家の記録であり国民の記憶だと述べています。檜山先生は、そのご研究の中で近代日本の社会が戦没者慰霊の在り方にどう関わって来たのか、全国の「戦争記念碑」や「戦没者慰霊碑」を調査して研究を進めて来たといいます。檜山先生の研究内容の一部をご紹介致します。

 日本の戦没者慰霊の特徴として、全国の市町村単位の戦争記念碑はありますが、国家としての記念碑がほとんどないことです。国民国家にとっての戦争とは、国民を動員して行うため兵士の勲功を称え、遺族のために犠牲になったことに対して意味を与えることが目的なのです。

 「箱館戦争」の慰霊の特徴として、未だに「官軍」と「賊軍」の対立的構造が残っているように思われます。「箱館戦争」の課題としては、旧幕府軍を「賊軍」としたことに対する名誉回復と国民的和解が必要なのだと思います。

 一般的に慰霊碑や記念碑には、建立目的や建立者などの情報が詳しく書かれるはずですが、「碧血碑」にはほとんど書かれていませんでした。不思議に思っておりましたが、前の講演者(木村氏)の説明で、新政府側に遠慮して書かなかったことがよく分かりました。

 世界の戦争記念碑や戦没者慰霊碑の例として、ヨーロッパにおける第一次大戦の戦勝記念碑や普仏戦争従軍記念碑などがあります。また、国(軍)が造った記念碑としては、スペインのフランコ政権が戦没者のために聖十字架大修道院を建設したり、中国・瀋陽市の蘇軍列士陵園などの例があります。

 戦後日本の戦没者慰霊施設として、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑、無名戦士の墓と沖縄戦没者慰霊墓碑、沖縄県摩文仁平和記念公園の例を取り上げていました。

 他にも、日本における空襲犠牲者慰霊や広島原爆犠牲者慰霊の実態などに触れていました。

 こうした実例から見ると、近代日本における「戦争記念碑」や「戦没者慰霊」の形としては、国家からの強制や定形化というものは余り感じられず、多くはその地域での住民の強い意志と自発性が生かされていると感じた、といっています。

 戦争記念碑や慰霊碑を通じて戦没者を慰霊するという形は、少なくても明治後期の日露戦争の頃までは形成されていました。「碧血碑」は、その意味で、最も早い慰霊碑であったといえるだろう、と述べておりました。

3.「碑前慰霊祭」と「特別大法要」、百五十回忌追悼記念行事

(1) 谷地頭の丘で「碧血碑碑前慰霊祭」(6月24日開催)
― 碑前慰霊祭を神式で行う ―

 函館碧血会は、六月二十四日(日)函館市谷地頭の丘にある碧血碑の前で、戊辰戦争・箱館戦争で犠牲となった戦没者の碑前慰霊祭を開催しました。碑前祭には例年より多い一二〇名以上の関係者・市民らが参列しました。

 明治二年(一八六九)に箱館戦争が終結しましたが、箱館の市街地には旧幕府軍兵士の遺体は放置されたままでした。これを大岡助右衛門や柳川熊吉らが実行寺の松尾日隆師に相談し、遺体を回収し埋葬したのでした。

 明治七年(一八七四)になって、明治新政府は旧幕府軍兵士犠牲者の祭祀を認めました。そのため、榎本武揚・大鳥圭介らが中心となって、慰霊碑を建てることとしました。場所は箱館戦争終戦の地にすることとして、旧幕府関係者から拠出金を募りました。

 同八年五月に碧血碑が完成し、箱館に運んで建立しました。最初に碑前・慰霊祭を行ったのは、諸準備・役所への届出等を終えて、同年九月十四日に実行寺日隆師によって仏式で執り行われました。そしてその三日後の九月十七日には北海道東照宮によって、神式による慰霊祭も行われたのでした。これが碧血碑の碑前・慰霊祭の始まりでした。

 現在慰霊祭は、毎年六月二十五日と決めて実施しています。新暦の六月二十五日は旧暦の五月十六日に当たります。中島三郎助が千代ヶ岱陣屋に立て籠もり、最後の戦いを挑んだ日でした。

 こうしたことから、平成三十年の碑前・慰霊祭は、六月二十三日から二十五日までの三日間を記念事業としていくつかの行事と合わせて行うこととしました。また、翌日に予定している「百五十回忌特別大法要」との関係から碑前・慰霊祭は北海道東照宮により神式で行うこととしました。

 碧血碑、碑前慰霊祭は、六月二十四日(日)午後二時〇〇分に始められました。斎主は函館碧血会副会長で、北海道東照宮の大谷仁秀宮司が務めました。慰霊祭にみそぎの祓いである「修祓の儀」から始まり、「斎主の祝詞奏上」で、儀式の主旨を述べていました。

 碑前には、榎本隆充氏、土方愛氏ら箱館戦争関係者のご子孫と、函館碧血会関係者のほか地域の住民や観光客らも集まり、これまでを大きく超える一二〇名ほどの方々が集まりました。

 祭礼が進み、佐藤豊副会長が「祭文」を奉じた後に、参列者全員が碧血碑に玉串を奉奠しました。最後に佐藤副会長から「本年は、旧幕府軍犠牲者の百五十回忌という節目の年を迎えました。私たちは、箱館戦争を通じてこの時代の歴史を刻んだ人たちを祀って来ました。この事を、これからも日本の文化、函館の文化として後世に受け継いでいきたい。」とあいさつし、碑前・慰霊祭を終了しました。

【碑前慰霊祭・写真帳】
(2)「函館碧血会総会」を谷地頭町会館で開催。(6月24日開催)

 碑前・慰霊祭終了後、「函館碧血会」は、例年のように谷地頭町会会館で、総会を開催しました。総会には、函館碧血会の役員・事務局員のほか、全国からお出で頂いた会員や旧幕府軍ご子孫の方々にもご参加頂きました。

 総会は二十四日(日)午後三時三十分頃から、政田事務局長の進行で始めました。平成二十九年度の活動を報告し、翌三十年度の活動方針を確認しました。

 活動の特徴としては、平成二十九年度は、本年三十年度の記念集会のための準備作業や打ち合わせを例年になく何度も行ったことや、この総会の日までに会員の増加を図り、総数八十名に伸ばしたことでした。また、記念行事の一環として『復刻版・碧血碑物語』を発刊し、会員他の方々から好評を得ていることも報告されました。

(3)「百五十回忌特別法要」を、一乗山・実行寺にて行う。(6月25日開催)

 明治に入って最後の内戦となった、箱館戦争で敗れ、犠牲となった旧幕府軍戦死者の御霊を弔う「百五十回忌特別法要」が、六月二十五日(月)午後二時00分より、船見町の「一乗山実行寺」の本堂で行われました。本年は、箱館戦争から百五十回忌という大きな節目となる年であることから、特別に「法要」を執り行うこととしたのでした。

 「特別法要」には、函館碧血会の会員と旧幕府軍ご子孫の方々のほか、関係団体の方や一般市民の方々など七十一名が参列して行われました。

 旧幕府軍の犠牲者は、榎本武揚が記した「明治辰巳之役東軍戦没者過去帳」によると、「箱館之役戦没者霊位」五百三十八名と「奥羽之役戦没者霊位」二百七十八名で、合わせて八百十六名の名簿となっています。

 式次第は、政田事務局長が進めました。午後二時ちょうどに、実行寺の望月ご住職と僧侶四名により読経が始まりました。改めて旧幕府軍犠牲者のご冥福をお祈り致しました。その後「焼香の儀」へと続き、ご子孫の方々をはじめ出席者も感慨深げに焼香を行いました。

 ご子孫の方々は、「特別法要」が終ってからも、記念写真を撮り、思いおもいの話に花を咲かせていました。

【特別法要の写真集】
(4)「箱館戦争と碧玉の志士たちを語る」トークショー。
― 追悼記念集会・第一部 ―

 船見町実業寺での「百五十回忌大法要」を終えた後、会場「五島軒」へと移動しました。二十五日(月)十六時三十分から「五十回忌記念集会」を開催しました。先ず第一部として、旧幕府軍のご子孫の方々にご参加頂いてトークショーを行いました。

 トークショーのコーディネィターは「箱館土方組」代表の白鳥美千代さん(函館碧血会所属)にお願いしました。

 ご子孫の方々それぞれがお持ちのエピソードをお聞かせいただきましたが、紙面の都合上、すべてご披露できず、その概要をご紹介致します。

 トークショーに先立って、今回会場となった「五島軒」からご挨拶を頂きました。企画開発室長の若山豪様は、「五島軒の初代料理長であった五島英吉という人は、実は旧幕府軍の生き残りであった。箱館戦争の後ハリスと正教会に逃げ込み、縁あってそこでロシア料理を勉強し、後に五島軒の経営者となる若山惣太郎と出会ったのです。」と、「レストラン・五島軒」と箱館戦争の関わりを紹介して頂きました。

 榎本家からは、四代目の隆充さんと奥様、それに五代目の隆一郎さんにご参加頂きました。隆充さんは「ここにご参加されている方々は、ご遺族として参加されているが、私どもの武揚は生き残ってしまったので、申し訳なく肩身が狭い」と、軽いジョークの後「旧幕府軍の遺体は、柳川熊吉さんら函館の心ある人たちによって埋葬され、後に碧血碑が建てられた。函館碧血会の方々には、一五〇年もの間休むことなく供養して頂いて感謝している。」と述べられました。

 土方歳三の兄のご子孫にあたる土方愛さんは、東京日野市にある「土方歳三資料館」の館長をされている。土方歳三に因むエピソードとして、ある時に渡辺市造という人の子孫から「歳三さんに命を救ってもらった」と言われた時のエピソードを紹介されたといいます。よく知られている小姓の市村鉄之助と同じぐらいの年齢で、一緒に箱館を逃れた可能性にも触れ、土方さんは「歴史は語らなければ伝わらず、埋もれてしまいます。語ることで人々の記憶に残り、伝えることが出来るのです。」と振り返り、伝えていくことの大切さを強調していました。

 千葉県からご参加頂いた和田四郎さんは、「私は新日鉄という会社で働き、室蘭で定年退職を迎えたのですが、私の曽祖父・和田惟一(初代函館碧血会会長)が、かつて室蘭製鉄所を作ろうとしていたことを社史で知りました。祖父の志を抱いて、サラリーマン生活を終えることが出来たのは大きな幸せでした。」と、ご自分のサラリーマン人生のエピソードをご紹介してくれました。

 土方歳三の義兄にあたる佐藤彦五郎は、歳三が幼いころから剣術を教え面倒を見ていたという。彦五郎から五代目の佐藤福子さんは、土方が無くなる少し前に、土方に遣わされた市村鉄之助が土方の最期の言葉を伝えに来たといいます。それには「私は、日野の佐藤家に対して、何一つ恥じ入ることはしておりません。どうかご安心下さい。」との伝言があったというエピソードをご披露して頂きました。

参加者とご先祖のプロフィール

■榎本隆充さん…旧幕府軍総裁である榎本武揚の曽孫。隆充さんは、東京農大の客員教授(日本近代史)。東京都在住。
 榎本武揚は徳川幕府の留学生として、オランダで国際法や軍事学を学ぶ。新政府軍の方針に反発し、旧幕府軍を率いてエゾ地に渡る。箱館戦争後、明治新政府に登用され、農商務相、外務相などを務め、北海道開拓にも尽力した。

■土方愛さん…土方歳三(一八三五~六九)の甥から数えて玄孫にあたる。現在は東京・日野市にある「土方歳三資料館」の館長。
 土方歳三は、文久三年(一八六三)に、近藤勇らと共に京都で新撰組を結成した。箱館戦争では、各地で陣頭指揮を執り奮戦したが、箱館総攻撃の戦いで狙撃され戦にした。

■中島永昭さん…中島三郎助(一八二一~六九)の曽孫。札幌市在住。中島三郎助は、ペリー来航時に浦賀奉行所与力として折衝役を務めた。箱館戦争では、新政府軍の降伏勧告を拒絶して千代ヶ岱陣屋で、長男恒太郎、次男英次郎と共に戦死した。

■佐藤福子さん・忠さん…「佐藤彦五郎新撰組資料館」の館長。夫忠司さんは副館長。佐藤彦五郎の妻「ノブ」が土方歳三の姉である。彦五郎と歳三は義兄弟の関係にあった。新撰組の近藤勇とも近く、終生新撰組と土方歳三には物心両面から支えていたという。

■高松基助さん・駿一さん…お二人の高祖父が、古屋佐久左衛門、高松凌雲の兄にあたる。お二人はいとこの関係にある。
 高松凌雲は、パリ万博に、日本代表として参加し、そのまま留学していた。帰国後、榎本の誘いに応じ箱館戦争の意思として参加。凌雲は戦傷者には敵味方なく治療。日本最初の赤十字運動を行った。

■和田四郎さん・藤野哲男さん…和田一族は、長く函館碧血会に尽した。和田惟一の弟宮路助三郎は碧血碑建立に奔走したが、早くに亡くなった。その後兄惟一が初代の会長となり、その子潤三郎が二代目を継ぎ、その甥(姉の子)の藤野正路が三代目を務めた。和田四郎さんも藤野哲男さんも、和田惟一の曽孫にあたる。

(5)「今宵語り合おう、函館碧血会の歴史を」
― 追悼記念集会・第二部 ―

 トークショーと記念集会は会場が違うため、移動して時間通り午後五時三〇分から記念集会を開催しました。

 記念集会のコンセプトは、「今宵語り合おう、函館碧血会の歴史を」と銘打ち、パーティ形式で行いました。参加人員は九五名でした。

 記念集会は、函館碧血会大谷会長の主催者としての挨拶から始まり、後援を頂いている函館市からも大泉観光部長からご挨拶を頂きました。恒例のあいさつの後、湊賢心氏から吟詠による慰霊を行いたいとの申し出があり、お願いしました。湊氏は、自ら「水月流賢心朗永会会長」として活動しているといいます。吟詠の内容は、中島三郎助の辞世の句を吟じていました。下記にその概要を述べています。

 第二部の記念集会は「当時を偲んで語り合おう」としていることから、郷土史家の近江幸雄氏と毛利剛氏から、箱館戦争や碧血碑について最近の研究内容を発表して頂きました。

 また、事務局から今回の記念事業を振り返って、開催場所・規模・内容などについて報告がありました。初日二三日の函館中央図書館視聴覚ホールでの講演会は、延べ二百人を超え、講演内容は三人の講演者で、約三時間に亘って行ったこと、翌二四日は、碧血碑の前で碑前慰霊祭を神式で行いまして、これにはおよそ百二十人が参加されました。さらに二十五日には実行寺において「大法要」を営み、これには七十一名が参列しました。

 今行われています、トークショーと記念集会には、九十五名が参加しているとの報告がありました。

 賑やかだった会場で、最後は講談師・荒到夢形師匠の講談「箱館義士伝」が披露されました。ご自分でも榎本武揚などの持ちネタはあったようですが、函館碧血会に来るということもあってか、大分勉強の跡が見られたように思います。

 演題の「箱館義士伝」に出てくる志士たちは、榎本武揚や土方歳三は勿論ですが、中島三郎助や伊庭八郎、高松凌雲、古谷作左衛門、そして最後には宮路助三郎、和田惟一、藤野正路まで多彩に出演させて熱演しました。

 そしてついには、会場の聴衆が静まり返るほどに引き込まれたようです。

 この講談を終えて、ちょうど時間となりまして、記念集会を終了致しました。

(6) 函館碧血会・会長からのご挨拶
― 追悼記念集会・第二部 ―

 本年度は「箱館戦争、追悼百五十回忌記念事業」にご協力頂きまして、誠にありがとうございました。

 明治二年に箱館戦争が終り、同八年に碧血碑が建てられました。以後、函館碧血会では毎年欠かすことなく碑前慰霊祭を行って来ました。特に今年は、箱館戦争が終って百五十回忌に当たるので、特別に記念事業を行うこととしました。

 今年は、明治百五十年であり、「北海道命名」百五十年です。全国で記念式典が行われておりますが、私どもも箱館戦争で義に殉じた兵士たちの「追悼・記念集会」を行うことにしました。

 近年は函館市民でも碧血碑の存在は知っていますが、建てられた理由を知っている人は少なくなりました。箱館戦争についても同じことで、起こったことは歴史的に知っていますが、その原因とか結末がどうなったのかについて、知る人は意外と少ないのです。

 私たちは、そうしたことから箱館戦争と碧血碑のことを理解して頂き、「函館碧血会」の活動を発信して、ご協力頂こうと「記念事業」を計画致しました。

 今回の記念事業を行うにあたって、多くの団体から後援を頂き、多くの方々から励ましの言葉を頂きました。お蔭さまで、当初私たちが考えてよりも、はるかに多くの方々に注目して頂きました。誠にありがたく、感謝申し上げます。

 「函館碧血会」は、これからも戊辰戦争の最終地となった函館の地で、多くの兵士たちの慰霊を行って参ります。今後とも私どもに、変わらぬご支援とご協力を頂きますよう、お願い申し上げます。

平成三十年六月二五日

函館碧血会会長 大谷 長道

4.特 集

(1) 「箱館戦争と碧血碑」の展示特集が行われる。
市立函館中央図書館「展示コーナー」で。

 市立函館図書館(館長・丹羽秀人氏)では、図書館入り口の二つの展示コーナーで、「箱館戦争開戦百五十年」および「碧血碑・柳川熊吉と碧血碑」と題した展示特集を行っています。

 函館碧血会では「六月の記念行事が終ってからも、こうして展示特集を組んで頂いている。碧血会の活動と歴史をアピールして頂き感謝しています。」(政田事務局長)と述べていました。

 函館碧血会と函館中央図書館とは縁が深く、初代館長の岡田健蔵氏や元木省吾氏をはじめとする歴代図書館長や石川啄木の義弟である宮崎大四郎(郁雨)氏もまた函館碧血会の会員として碧血会を守って来ました。現在の丹羽館長にも、碧血会の役員をお願いしております。

 今回、函館中央図書館では、箱館戦争戦没者百五十回忌を記念して、二つのコーナーで紹介・展示されています。「箱館戦争開戦百五十年」は、関連の年表と共に「麦叢録付図」や図書館が所蔵している幕末・明治の古写真などを展示しています。期間は昨年六月三十日から本年三月二十八日迄です。

 「碧血碑・柳川熊吉と碧血碑」のコーナーでは、碧血碑裏面の漢詩拓本および榎本武揚・柳川熊吉などの碧血碑に関わった人たちや碧血碑に関する資料などを紹介していました。こちらの期間は、昨年七月二十八日から本年の碑前祭が終るまでの六月末日まで展示する予定にしています。

(2) 特別寄稿「柳川熊吉と美川屋幸三郎、そして清水の次郎長」
市立函館中央図書館 館長・丹羽秀夫氏

 函館の人たちが、所謂官軍に反感を持っているのは、箱館戦争後、榎本軍戦死者たちの遺体の放置という非道な戦後処理にあったのではないでしょうか。暑くなる新暦6月に戦いが終わりましたから、町中に死臭が漂っていたことでしょう。その遺体を集めて弔った柳川熊吉は、命を懸けた行為と今も尊敬されています。

 上野戦争で亡くなった彰義隊兵士も同じでしたが、彰義隊士の遺体は、箱館の柳川熊吉のように弔った人物が江戸にもいました。三幸というあだ名があった商人三河屋幸三郎です。三河屋幸三郎は、配下とともに遺体を集め、南千住の円通寺で埋葬しました。円通寺には上野寛永寺から移築された銃根の残る黒門と共に、上野戦争で亡くなった人たちを慰霊する碑や、多くの戦死者の墓、旧幕府軍関係者の碑などが今もあります。

 江戸湾を脱走した榎本艦隊の中には、幕末勝海舟らによるアメリカ渡航に使われた咸臨丸がありました。咸臨丸は、暴風雨のために本隊とはぐれて流され、静岡の清水港に停泊し修理しましたが、官軍の艦隊の急襲にあい、白旗を上げたにもかかわらず乗務員は惨殺されました。遺体は次々に海に放り込まれ、清水の海岸に打ち上げられたといいます。やはりここでも放置命令が出る中、遺体処理に当たったのが有名な清水の次郎長です。次郎長は災難にあった咸臨丸乗組員のための慰霊碑を建てています。この行為に感服した山岡鉄舟は、次郎長と親交を結び、その付き合いは終生続きました。

 私はこれらのことを、子母澤寛の小説で知りました。小説とはいえ、子母澤寛は資料研究を十分行い、関係者に会って記録を作っていましたから、小説の根幹をなす歴史上のことはほとんどが事実です。

 子母澤寛は、上野戦争から東北を敗走し、仙台で榎本艦隊に同乗し蝦夷地に渡って箱館戦争で戦った祖父を主人公にした「蝦夷物語」を書いています。この本では、三河屋幸三郎が戦没者を火葬し、お骨を円通寺に持ち込んで住職仏麿和尚にとって弔われていますが、これは事実です。しかし、仏麿和尚のことや三河屋幸三郎と仏麿和尚のやり取りなど、あまりに不思議で、創作も交えているのでしょう。

 また、箱館戦争終結後、会津屋敷(他の作品では実行寺と書かれているものもあります)に収監された祖父に、東北ではぐれた彰義隊の同士福島直次郎が面会にきます。福島は箱館に来て柳川熊吉の客分となっていましたが、これは創作と思われます。

 函館の人たちなら、箱館戦争に関することなら、史実の中に創作を見つけることが出来て、子母澤寛の小説をより楽しめると思います。

(函館碧血会・役員)

(3) 新聞投稿記事「箱館戦争と碧血碑・碧玉の志士たちの百五十回忌」
― 敵味方なく埋葬、市民の博愛主義 ―

 「函館碧血会」は毎年、函館市谷地頭町の碧血碑の碑前において、箱館戦争で没した旧幕府軍兵士の慰霊を行っています。本年は、一八六九年(明治二年)に箱館戦争が終了して一四九年に当たります。「百五十回忌」の節目を迎える年になるのです。

 一八六八年に始まった戊辰戦争と、続く箱館戦争で多くの戦没者がなぜ出たのか。大政奉還を経て新しい政体が誕生した後に、徳川政権の影響力が残ることを嫌った薩長連合と一部の公家による新政府の強権的政策が背景にあると、私は思います。

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 一八六七年、榎本武揚が開陽丸に乗って五年ぶりにオランダから帰国すると、祖国は革命の最中にありました。徳川慶喜による大政奉還後、新政府は「王政復古の大号令」による一種のクーデターを起こして、戊辰戦争へと持ち込んだのでした。平和裏に「大政を奉還」したはずの幕府は「賊軍」の汚名を着せられてしまったのです。

 翌年四月に江戸城が無血開城されると、徳川家四百万石は七十万石に石高を減らされて駿河に移封され、ほとんどの幕臣は路頭に迷うことになりました。榎本は品川沖の開陽丸から新政府に対して、旧幕臣の救済措置として「蝦夷地の開拓と防備を幕臣で行いたい」と要望したのですが、答えは「新政府に逆らう者はつぶす」。新政府は、榎本らを戦争へと追い込んでいったのでした。

 新政府軍は箱館戦争が終わった時、自軍の犠牲者は招魂社に手厚く葬りましたが、旧幕府軍の遺体は路傍に放置したままでした。これを箱館市民が自主的に収容して、埋葬したのです。「亡きがらに敵味方はない」との人道的な考えからだといいます。柳川熊吉や大岡助左衛門などの市民と、実行寺をはじめ多くの寺院が協力して埋葬したといわれています。

 この旧幕府軍の戦没者の慰霊のために後年建立されたのが碧血碑です。高松凌雲の赤十字思想といい、旧幕府軍戦没者の埋葬といい、こうした心意気は国際的な博愛主義に通じるのではないでしょうか。

 新政府は幕府から力ずくで政権を奪い、会津藩など自らの意に沿わない地方勢力を徹底してつぶし、士族の生活救済を顧みない方針でした。強い政権をつくろうとしたのでしょうが、偏った強権的政策の反動が後に士族反乱となって現れてきます。それを抑圧した明治日本は「富国強兵」を掲げて日清・日露戦争に至り、果ては太平洋戦争へと突き進んだのだと考えられます。

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 振り返れば戊辰戦争に至る前に、平和的に新政体に移行しようとする動きはあったのです。私たちは、この歴史をしっかりと見つめておくことが大切だと思っています。

 「函館碧血会」は今年、百五十回忌追悼行事を幾つか計画しています。六月二十三日から二十五日にかけて、「箱館戦争と碧血碑」の講演会(函館市中央図書館)や碧血碑前慰霊祭、大法要(実行寺)、記念集会(五島軒本店)を予定しています。一緒に碧血碑の意義について考えてみませんか。

(「函館碧血会」 平三〇・一・二八、北海道新聞に投稿)

新聞で見る「150回忌記念行事」