函館碧血会

25.子どもたちと碧血碑

25.子どもたちと碧血碑
(函館新聞寄稿記事、3 回連載)

第 1 回 折鶴奉納、地域史学ぶ (掲載日・令和 3 年 6 月 11 日・金)

 今年もまた、6 月 25 日の「碧血碑、碑前慰霊祭」の日が近付いて参りました。今年こそはいつものスタイルで行うことが出来る、と楽しみにしていたのですが、残念ながら今月に入って、北海道全域にコロナウィルスによる「緊急事態宣言」が出され、今年もまた関係者だけの淋しい「慰霊祭」になってしまいそうです。

 そんな中で、毎年「碧血碑、碑前慰霊祭」に参加して頂いている、小さなお客様がいます。谷地頭町の丘のふもとにある「谷地頭認定こども園」の園児さんたちですが、ここではこれまでとてもユニークな教育活動を続けて来られました。私共「函館碧血会」とも、もう四十年近いお付き合いをさせて頂いています。それは町内の世代間事業として、大人の仕事を見たり聞いたり時には参加したりしながら、学ぶ「活動」なのだといいます。その活動の一つに、私たちが行っている「碑前慰霊祭」も取り上げて頂いているのです。園児さんたちに「折り鶴」を折って頂いて、碧血碑に毎年奉納して頂いています。

 こども園では、子供たちに「むかし、『箱館戦争』という争いがあって、たくさんの人たちが亡くなりました。これからはそんなことはしないという誓いを立てて、大きな記念碑を作りました。今、みんなが幸せに暮らしているのもその誓いを守って仲良くしているおかげです。ありがとうの気持ちと安らかに眠ってくださいという気持ちを込めて『折り鶴』を作り、今年も碧血碑にお参りに行きましょう。」と話してあげているそうです。

 子どもたちの「折り鶴」は、とても上手に出来ていました。「折り鶴」を折っている所を見せて頂きましたが、思いのほか早く折ることが出来ていました。中にはうまく折れない子もいて手を貸す子、何枚折ったか自慢する子、外部の人に興奮して走り回る子、様々な個性の子どもたちでした。

 今年は残念ながらコロナ感染予防のため、「碧血碑」へのお参りは出来なくなってしまったため、私たち「函館碧血会」に「折り鶴」の奉納を託して頂きました。

(※1)1875 年(明治 8 年)に榎本武揚ら旧幕府軍関係者らが建立した箱館戦争の戦死者を追悼する慰霊碑。函館碧血会事務局長で郷土史家の木村裕俊さんに碑前慰霊祭や箱館戦争の歴史について寄稿してもらった。(3 回掲載します。)
(※2)写真は、新聞掲載記事の切り抜きから複写して使用。

第 2 回 榎本、エゾ地への思い (掲載日・令和 3 年 6 月 12 日・土)

 「箱館戦争」(1868~69)とは、「戊辰戦争」と呼ばれる江戸時代から明治時代に移る過程で起こった日本の最大・最後の内戦でした。この戦いを目的別に三つに分けますと、第一は徳川家を完全に排除するための戦いであり、第二には地方で抵抗する藩を抑え付けて、全国統一を目指す戦いでした。第三が「箱館戦争」でしたが、これまでの第一・第二の目的とは少し違っていました。

 榎本武揚は品川沖の開陽丸から、職を失った旧徳川幕臣に「エゾ地での開拓と北方警備」を行わせるよう、新政府側に要望していました。しかし全く無視され続けたため、実力行使的にエゾ地に渡ったのでした。榎本がエゾ地に渡ったのは、戦争が目的ではありませんでした。「エゾ地で開拓事業と北方警備を行なって、新政府に協力したい」としていましたから、エゾ地に渡る行為には戦意はなかったはずなのです。

 そして、榎本は、この要求を何度も何度も、あきらめずに要望していました。品川を離れる前に、勝海舟らに新政府への手紙を頼み、仙台では新政府軍の東北総督府に書状を託し、エゾ地に渡ってからも箱館総督府に、松前藩に、さらには英国艦や仏国艦の艦長らに託して、新政府に繰り返し要望書を書き続けました。それでも新政府側からは無視され続け、戦いを仕掛けられて来ました。

 当時の事ですから、仕掛けには応戦しましたが 1868 年(明治元年)の戦いでは、戦力に勝る榎本軍が勝ちました。こうした榎本軍ですから、戦いの中で敵側に示した温情的措置も何点か見ることが出来ました。高松凌雲の「箱館病院」は、敵味方なく治療していましたし、松前藩との戦いが終わった後には、弘前に避難した藩主の下に行きたい者は武器を置いて行くことを許していました。

 しかし、翌 1869 年(明治二年)の戦いでは、新政府軍は榎本軍の三倍に近い兵力を投入し、抑えにかかりました。この攻撃には榎本軍もたまらず各地で敗北してしまい、ついに箱館市街戦では土方歳三が倒れ、千代ヶ岱陣屋の戦いでは中島三郎助父子らが奮戦の末全滅してしまいました。そして「箱館戦争」は終わりました。この戦いが終わった日が、旧暦の五月十六日で、新暦にすると六月二十五日に当たります。「函館碧血会」では、その日を「碑前慰霊の日」と決めたのです。

第 3 回 碑前に誓う榎本の思い (掲載日・令和 3 年 6 月 13 日・日)

 新政府軍は、クーデターにより出来た政権であり、最初から力によって徳川政権を徹底して倒すことを目的にしていました。ですから当時の国際法など全く考えることなく、松前藩に遣わした使者を簡単に殺してしまったり、箱館市街戦では箱館病院に押し入ってケガ人をあえて殺してしまったり、戦争後に街中に遺棄されていた敵兵をあえてそのままに放置させたりと、かなり凄惨な行為を行っていました。

 箱館戦争が終わった時、路傍に放置された遺体の埋葬を行ったのは箱館市民でした。新政府軍の目を掻い潜り、柳川熊吉や大岡助右衛門、実行寺の日隆和尚らが中心になっていたといいます。榎本ら、旧幕府軍の幹部たちが牢獄から釈放されたのは、1872 年(明治五年)のことでした。彼らは埋葬してくれた函館市民に感謝し、「戊辰戦争」最後の地に、出来るだけ大きく立派な碑を建てようと決意し、募金活動を始めたのだといいます。

 今にして思うと、「戊辰戦争」は、避けられるチャンスが何度もあったように思うのです。平和裏に政権を委譲しようとしていた「大政奉還」でしたし、越後長岡戦争にも、会津戦争にも、そして箱館戦争にも、そのチャンスはありました。私たちは、この事をしっかり学んでおくことが大切だと思っています。

 1875 年(明治八年)に谷地頭の丘に「碧血碑」を建立し、以来毎年欠かさず碑前慰霊祭を行って来ました。榎本武揚はその後、黒田清隆らに請われて明治政府に加わることとなり、新しい近代日本の骨格を作ってきました。旧幕府関係者だとして、妬みやそしりを受けることもありましたが、仕事では誰にも負けることはありませんでした。彼が休みなく働き続けてこられたのは、「碧血碑」に眠る多くの英霊たちに、彼の作った新しい日本の姿を見てもらいたいという慰霊の気持ちがあったからだと思います。

 1907 年(明治四十年)、榎本武揚七十一歳の時、榎本は改めて碧血碑に祀られている八一六名全員の名前を掲載した『明治辰己之役東軍戦没者過去帳』という名簿を書きあげました。そして、翌年帰らぬ人となったのでした。

 榎本もまた、一人ひとりの名前を『過去帳』に書き入れながら、子供たちと同じように心の中では「むかし『箱館戦争』があって多くの仲間を犠牲にさせた。私たちはあなた方の事を決して忘れはしない。これからは、残されたみなが幸せに暮らせるように尽くします。安らかにお休み下さい。」と、「碧血碑」に誓っていたのではないかと思います。

(了)