柳川熊吉翁一人語り「二十」
▲用心堅固の
隠家
俺の家は其時今の船見町にあって、ハウルさんの隣りになっていたから大層都合が好かった。其の時は外国人の屋敷には、承諾がなければ
設令
役人でも踏み込むことは出来ないことになっていた。俺は元来賭博が好きであったから、家を造る時から
遁
げ口を拵えておった。
恰度
ハウル屋敷に
添
いた方の座敷には。床の間があって其の床の間の掛物の影には、壁を切り抜いた
遁
口を
拵
えている。
平生
は掛物を取っても、一寸目に付かぬように巧く出来ておって其の
遁
口の裏には、更らに
半間
位の廊下があって、其の廊下の床下から外に出られるようになっている。此の廊下は母屋として建てた一部であるから、外から見ては床の間の影にこんな
抜口
があるとは誰れにも気付かれない。今までは此の
抜口
を
用
ったことはなかったが、官軍の方を幕軍の勢いの
昌
んな処に泊めて置くのだから、少しも油断は出来ないと思って、此処に隠して置いたのである。
▲果して幕軍の夜襲
田島さまばかりだと思ったら、井上さまも一緒であった。家の人々にも能く言い含めて、決して泊り人があることを言わせなかった。けれども隠すより顕わるるはなしで、二人は一寸も外出はせぬが、時々永井さまからの
使者
があるので、人の出入の激しい
遊郭内
のことであるから、誰れ言うとなく熊吉の
宅
に官軍の人は隠れているとの評判は立った。俺は別に官軍だとか幕軍だとかは
然
う分け隔てを立てているのではないが、兎に角沖口番所には官軍が来るかというので番をしておったのだから、言わば幕軍である。夫れに官軍を泊めて置いては仲間の者に言い分が立たぬが、俺を見込んで頼まれて見れば此の二人は殺させることは出来ない。自分の身に代えても助けて上げようと決心しておった。彼是れ五十日もおったでしょうが、其の内に三番隊というのが最も官軍を憎んでおった。其の三番隊に此のことが聞こえた。血気に逸る若者どもは、今は官幕の開戦目の前に迫っているのに熊吉官軍に裏切りするとは不埒であるといって、俺の家に夜責めに来た。こんな事があろうと思って前からハウルにも頼んで置いたし、二人の方にも抜け口を教えておったから夜襲の来るや否や二人を逸早くも隣のハウル社に逃がして仕舞った。三番隊の隊長は俺と口論の揚句、家捜しをして見たが、何処にもいる様子がなので、手持ち無沙汰に引揚げた。夫れからハウル社から又十の蔵の処にポータという英国人がおったから、夫れに頼んで沖に
碇
っていた官軍方の船に送って遣った。其の時は随分危険であって、今思うても背中がヒヤヒヤするようであった。
▲榎本子と初面会
其後間もなく、幕府の脱走兵は函館に来て函館戦争となった。榎本釜次郎さんも五稜郭に入って、苦戦されたとは皆さんもご承知であるから、戦争の話は省きます。俺も五稜郭に出入りして、榎本さんのお顔を見ましたが、戦争の時には別に榎本さんと
名乗合
って、お話をしたことはありません。
軍
が治まってから、榎本さんは露国の公使になった。暫らく彼方にお出になっている間に俺は東京に行って井上さまにもお目にかかって色々
昔譚
をしたこともありました。夫れから榎木さまは露国から帰って函館にお出でになった時、始めてお目にかかってお前は熊吉であったかというお
辞
が
抑々
榎本様にご
贔屓
になった始めでした。
決して戦争当時から知っておったということではありません。それがご縁で
碧血碑
を建てたり、井上様や松方様などにお目通りを出来たりして、自分では非常な名誉なことと思っています。
▲更科蕎麦の開業
私
が
谷地頭
に
更科蕎麦
を開業したときは明治四年で、其の時谷地頭には十二軒しか家は建っていなかった。其の時のことを思うといろいろ面白いことがありますが、夫れは
断片
の話で別に
連絡
いた一代記という訳でないから、
何
れ
折
があったら又思い出して話しましょう。
「終」