函館碧血会の歴史(1)

Last Updated Date 2020.8.18

志士たちを埋葬した箱館市民

函館碧血会

柳川熊吉と大岡助右衛門
晩年の柳川熊吉(函館蕎麦史より)大岡助右衛門(経王寺に伝わる肖像画)

巷説によると箱館戦争が終結し、路傍に放置されていた旧幕府軍戦死者を大岡助右衛門と柳川熊吉が率先して収容し、実行寺の住職・日隆師が埋葬したと伝えられています。しかし、なぜ實行寺が先頭に立ってこうした行動をしたのか余り知られていません。そこで『箱館戦争と碧血会』の「碧血碑にまつわる物語」を参考に、実行寺・松尾日隆師と大岡助右衛門、柳川熊吉の行動を伝えられるままに整理してみました。

箱館戦争が終了した後、明治新政府は「賊軍」に関わらないよう命令していたため、箱館の住民は後難を恐れて戦死者はそのまま放置していました。これを実行寺の日隆師が埋葬することを引き受けたというのです。そしてそれには、大岡助右衛門という人物が関係していたというのでした。

大岡助右衛門という人は、大工の棟梁でした。五稜郭の建物工事を中川源左衛門の配下で行っており、その頃には柳川熊吉も五稜郭工事に参加していましたから、二人は意気の合った仲間同士であったのでしょう。二人とも街中に放置された榎本軍の戦死者を、何とか収容して埋葬しなければと考えていましたが、新政府の意向もあり当初は引き受けてくれる寺院はなかったといいます。

大岡助右衛門は実行寺の檀家でした。ある時に、助右衛門は實行寺の日隆師に街中の惨状訴えて相談したところ、日隆師は戦死者を収容して實行寺まで運んでくれれば、埋葬を引き受けてくれるとのことでした。この当時、明治新政府は各寺院に対して「賊軍戦死者への慰霊を行ってはならない」との通達を出していたというのです。当初、日隆師は新政府に対して遺体の収容には「関係していない」とトボけた返答をしていました。時には「亡骸に敵味方はない、遺体は鄭重に扱われるべきだ」と説教もしていたといいます。そしてついに、その勇気ある行動が他の寺院をも動かし、膨大な戦死者を手分けして収容し埋葬することが出来たのです。

一般にこの時の遺体収容は、主に柳川熊吉が中心になって行われたと伝えられていますが、実行寺は助右衛門の檀那寺であり、むしろ助右衛門が實行寺に相談し、その心意気に感動した熊吉が協力を申し出たのが真相ではないかともいわれています。後に熊吉は日隆師の心意気に感動し、宗旨替えをして實行寺の檀家になったともいいます。

五稜郭の工事が終了した後も、大岡助右衛門は函館に残りました。そして明治五年には新政府に協力して、札幌で初期の「道庁庁舎」や「豊平館」などの工事を手掛けた。大岡助右衛門もまた榎本武揚らと同様に、明治新政府の有用な人材として力量を発揮した人物の一人であったのです。

箱館戦争終了後に、街中に放置された榎本軍戦死者への扱いに心を痛め、自らの命を顧みずに行動した、気概の人でもあったのです。大岡助右衛門はその後札幌に移ったため、以後の碧血碑の建立や慰霊祭に世話人として積極的に関わって来た柳川熊吉が、一人クローズアップされましたが、やはりこの二人と実行寺の松尾日隆師が、最初に勇気ある行動を取ったというべきでしょう。

明治八年には谷地頭の地に「碧血碑」が建立されました。この碧血碑の建立には、大岡助右衛門も柳川熊吉も協力していたことが分かっています。ただ、大岡助右衛門はすでに札幌でしたから、代理人の為六という人が名を連ねていました。

明治十一年に起きた函館大火の後の同十四年に区画整理が行われ当時の各寺が現在地に移動することとなりました。そのため、それぞれの寺に埋葬されていた戦死者の御霊を、宮路助三郎が函館山の麓、碧血碑の近くに移葬したと伝えられています。当時の新聞によりますと、その数は実行寺で九十四名、称名寺で三名、浄玄寺(現東本願寺函館別院)で一〇七名、願乗寺(現西本願寺函館別院)五十四名の合計二百五十八名を移送したといいます。但しこの数字には、箱館病院で亡くなった人や宮古湾海戦などで亡くなった人も入っているようですので、大岡助右衛門と柳川熊吉が苦労して収容した戦死者たちだけではなさそうです。当時の新聞には、次のような記事が載っていました。

明治二年当港ニテ戦死セシ旧幕臣、中島三郎助父子、伊庭八郎、甲賀源吾、土方歳三、古屋佐久左衛門、ノ諸氏ヲ始メ戦死者ノ遺骸ハ、称名寺三名、実行寺九十四名、浄玄寺百七名、願乗寺ニ五十四名ト、夫々皆埋葬ナリシガ、今度称名寺、実行寺、浄玄寺ノ三寺ハ悉ク他ヘ移転セルニ付、宮治助三郎氏ガ自費ヲ以テ右三ヶ寺ニアル墓碑ヲ追々他ヘ移サルルヨシニテ其遺骸掘上グルニ身体を纏ヒシフランケット又ハフランネルノ襦袢ナド総ヘテ毛繊モノハ屹トシテ元ノ儘存在シアリトゾ。
(明治十四、八、二四、函館新聞五五三号)

現在の寺院
一乗山実行寺(函館市船見町)護念山称名寺(函館市船見町)
東本願寺函館別院(函館市元町)西本願寺函館別院(函館市東川町)

函館碧血会の歴史(2)

R.02.07.03記述

碧血碑の建立

函館碧血会

 「箱館戦争」は、明治元年(一八七五)の戦いと翌二年の戦いに分かれています。わずか半年余りの戦いでしたが、厳冬期の休止期間があったからでした。明治元年の十月から十二月までの戦いを「戊辰の役(ぼしんのえき)」と言い、翌明治二年の四月から五月までに戦いを「己巳の役(きしのえき)」と呼んでいるのです。

 箱館戦争とは、旧幕府方の榎本軍と新政府軍との最後の戦いでした。この地で戦いに敗れ、なお生き残った榎本軍の将校たちにとっては、痛恨極まりない気持ちであったことと思われます。

明治二年に函館戦争が終結した時、榎本軍の遺体は路傍に放置されていました。これを箱館市民と寺院が協力して自主的に埋葬しました。榎本武揚や大鳥圭介ら、旧幕臣の幹部たちがこの事を知ったのは、明治五年(一八七二)に釈放されてからでした。彼らは箱館市民のこの行為に感動し、募金を集めて「戊辰戦争の最終地・箱館」に「戊辰戦争以来の戦死者の碑を建立することを思い立ったのでした。

 碧血碑は、明治六年(一八七三)に大鳥圭介が現地・函館の地を実地に踏査して建設地を決め、同七年には伊豆産の石材をもって東京霊岸島で彫刻し、翌年には完成させて箱館まで運び、現地で組み立てたのです。明治八年(一八七五)五月のことでした。

 函館山の麓・谷地頭の地に、碧血碑は建っています。戊辰戦争で戦った旧幕府軍の戦没者を慰霊するための記念碑です。しかし、榎本ら生き残った者たちにとっては、単なる記念碑ではありませんでした。碧血碑の背面に

「明治辰巳/實有此事/立石山上/以表厥志/明治八年五月」

と刻まれています。この漢文の大意は「明治の辰年と巳年(元年と二年)に、実際に此の事が有った。(そのため)山の上に石(石碑)を建て、それをもって私たちの志を表します。」と表現されています。

 碧血碑が建てられたのは、箱館戦争が終って七回忌に当たる明治八年です。あれからかなりの時間が過ぎたように思えますが、それでもなお敗戦した榎本軍には「此の事が有った」としか表現できなかったのです。榎本軍の冥福を大っぴらに祈るには、まだ世の中に憚りがあったのです。

 榎本武揚や大鳥圭介など、後年まで生き残った人たちがこの碑を作り、戊辰戦争の最終戦地となった函館にこれを建てて戦死者の魂を鎮めたのでした。「碧血碑」の名称は大鳥圭介が付けたといわれます。その本となったのは、中国の古典『荘子外物伝』の記述

「萇弘死于蜀/蔵其血三年/而化為碧」

からだといいます。その大意は「義に殉じて死んだ者の流した血は、三年経つと地中で碧玉(宝石)に化す。」ということからきているといいます。

碧血碑の建立
碧血碑背面の拓本(函館碧血会蔵)建設当初の碧血碑
碧血碑、碑前慰霊祭碧血碑、碑前慰霊祭


函館碧血会の歴史(3)

R.02.07.09記述

碧血碑に祀られた志士たち

函館碧血会

 「函館碧血会」は、明治八年(一八七五)に谷地頭の丘に碧血碑を建立して、今日までの一四五年間毎年欠かすことなく碧血碑の碑前において、戦没者の霊位を慰霊して来ました。碧血碑に眠る御霊はすべて旧徳川軍の「義」に殉じた人たちです。榎本武揚が調査・整理した名簿には八百十六名の名前が掲載されています。この名簿は「函館中央図書館」に所蔵されている『明治辰巳之役東軍戦没者過去帳(以下『過去帳という』)』(榎本武揚著、明治四十年)という史料です。

 この資料は、碧血碑が建立されてから三十年以上経過した頃に世の中に出てきていますが、いつの時点で調査したものなのか定かではないようです。名簿に書かれた名前や数字も確認されていないようです。ただ、この名簿の元となるものが早い時点から存在していたのだろうと考えられていました。そのことも含め現時点では、榎本の『過去帳』が最も信頼できる史料だといわれています。

 榎本の『過去帳』と名簿の一端を覗いて見ましょう。まず「序文」には、以下のように述べられています。

 「戊辰之役」の際、我が軍に属して函館その他の各地において戦死したものの遺骨は、当時は憚ることがあって、誰にも顧みられることはなかったが、侠客の柳川熊吉という者が、実行寺の住職と図って谷地頭の丘に埋葬した。後に同志たちが相談して、一つの目標を建て、これを「碧血碑」と名付けた。

 この序文の後に二つの名簿が付けられており、一つは「箱館之役戦没者霊位」として五百三十八名分の名簿が付けられていました。そしてもう一つの名簿には、「奥羽之役戦没者霊位」として二百七十八名分の名簿が付けられており、二つ合わせると八百十六名分の名簿となります。

 名簿は位階順に整理してあるようで、「箱館之戦没者霊位」では第一番に一本木で戦死した土方歳三の名前があり、次に宮古海戦で犠牲になった甲賀源吾が、以下に春日左衛門、伊庭八郎、古谷佐久左衛門…、と続いています。全体的に二つの名簿を合わせて八百十六名が記載されていますが、一年半にわたる戊辰戦争の犠牲者ですから、少ないような気がします。また、榎本は奥羽戦線に参加していませんから、上記名簿はどのような関係を持っているのか、疑問が残ります。

明治辰巳之役東軍
戦没者過去帳(表紙と序文)
(函館中央図書館蔵)

『明治辰巳之役東軍戦没者過去帳』(榎本武揚著、明治四十年)
「箱館之役戦没者霊位」(538名分の名簿)
(函館中央図書館蔵)

「箱館之役戦没者霊位」(538名分の名簿)を見る

「奥羽之役戦没者霊位」(278名分の名簿)を見る


函館碧血会の歴史(4)

R.02.07.06記述

「函館碧血会」の誕生

木村裕俊

 明治五年(一八七二)一月になって、榎本武揚や大鳥圭介ら旧幕府軍の首脳たちが赦免されました。この時彼らが知ったのは、箱館戦争が終った後亡くなった自分たちの仲間が路傍に捨てられたままであったことと、それを収容し埋葬してくれたのが戦争と関係ない函館の市民であったということでした。また、かつて箱館戦争に従軍していた人たちの間からも「未だ成仏出来ないでいる同志たちを弔いたい」、「墓碑を作って供養したい」との声も高まっていたといいます。榎本ら旧幕府軍の幹部たちは、こうした動きに心を動かされ、函館市民に感謝しつつ函館の地に旧幕府軍の戦没者慰霊のための「碧血碑」を建立することとしました。

 翌、明治六年に大鳥圭介が来道した際に函館に立ち寄り、谷地頭の丘を視察して行ったことから、この地に記念碑を建てることで一気に実現に向けた動きが出てきたのでした。この動きに合わせて東京では「碧血社」という組織が結成され、同年「東京碧血会」に改編されました。この「東京碧血会」が、碧血碑の建設のために募金活動を行ったのでした。

 明治七年に東京湾霊岸島で石碑が刻まれていますが、この時の発注者は「東京碧血会」であったといいます。そしてその後の碧血碑の管理と慰霊祭の運営は函館にいるメンバーに任せたのでした。

 函館での活動は、東京と同じように明治八年以前から行っていたようですが、「函館碧血会」という名前で正式に「会」が発足した時期がいつであったのか、はっきりしていませんが、明治十四年にこれまでより規模の大きい「十三回忌法要」を行っており、明治十五年には和田惟一が函館で旅館業、回漕業をはじめ、初代会長に就任していることから、この頃だろうと推測されています。それまでは、和田の実弟で宮路助三郎が函館の代表幹事として碧血碑の世話をしていましたが、宮路は兄と入れ替わりに東京に出て、すぐに病死してしまいました。

 和田惟一は、かつて榎本と共に同じエゾ地に向かう船団の美嘉保丸という船に乗り込んでいたのですが、銚子沖で嵐に遭い、破船してエゾ地にはたどり着けなかったのでした。榎本は、この元幕臣で戊辰戦争にずっと参加して来ていながら、箱館戦争に参加出来なかった和田に、現地「函館碧血会」の会長となり、碧血碑の運営と保護を要請しました。和田はこれに応え、戊辰戦争で生き残ったものの務めとして、誠心誠意心を込めて事に当たったといいます。

 草創期の「箱館碧血会」のメンバーは、宮路助三郎や幕臣身分の人たちでした。協力をした実行寺の有力檀徒や箱館戦争で幕艦の乗組員、従卒、中間、職人などの卒属や平民身分の人たちは、世話人として支援していたといいます。

旧幕府脱走軍の幹部たち
榎本武揚(函館中央図書館蔵)大鳥圭介(函館中央図書館蔵)
和田惟一宮路助三郎(函館中央図書館蔵)

函館碧血会の歴史(5)

R.02.07.12記述

碧血碑の建設費

函館碧血会

 箱館戦争が終って四年目を迎える明治六年(一八七三)に、東京で「碧血社」という組織が結成されました。戊辰戦争で犠牲になった旧幕府軍戦死者の霊を弔うために碧血碑を建てて、慰霊することを目的とした組織でした。この「碧血社」こそが、後の「東京碧血会」、「函館碧血会」に先立つ社中だったのでした。

 碧血碑建立の声は、東京に在住する箱館戦争参加者の中から起ったのでした。「北国にさまよう旧幕府軍戦死者の霊を弔うため、戦争終焉の地に一大墓碑となる記念碑を建てよう」と呼び掛けて拠出金を募ったのでした。碧血碑を建立するための募金は「東京碧血会」が行いました。メンバーは、榎本武揚や大鳥圭介らが中心になっていました。その結果募金額は、当時の価格で四千円以上を集めることが出来ました。明治七年(一八七四)に「東京碧血会」が碧血碑の製作を発注し、翌年箱館に運搬して組み立て、その他必要経費を合わせて、全体で三千百六十円かかりました。

 明治十四年(一八八一)五月、「東京碧血会」は上野の東照宮で箱館戦争十三回忌を行いました。その席上、函館に建立した碧血碑の管理、保存の方法について協議しました。この時の有志者には、榎本武揚、永井尚志、大鳥圭介、荒井郁之介、澤太郎左衛門などが出席していたといいます。そして碧血碑の運営保全のため「東京碧血会」から「函館碧血会」に必要額を送付することが決められたといいます。

 碧血碑建立のため集まった募金のうち、建設費を除くと約千円が残った。「東京碧血会」は、この千円を公債に投資して年五十円の利息を得て「函館碧血会」に送金していました。「函館碧血会」ではこの金額で、碧血碑の番人の手当や慰霊祭の必要経費、終った後の法要の補助等に使っていたようです。

 碧血碑の建設費に三千百六十円かかったといいますが、現在の価格に換算すると、どの位になるのでしょうか。あまり正確ではありませんが、米の価格をもとに推測してみましょう。米価はかつて換金するための統制価格でしたが、現在は自由価格となったため想定幅も大きく振れる傾向にあります。その事を前提に推定してみます。

(碧血碑建立、現在価格の推定)

①碧血碑の建立価格(明治8年当時)=約3,160円

②明治初年の米の価格(1石当たり、ウィキペディアを参照)

 明治5年(2円00銭)、明治6年(3円00銭)、明治7年(4円68銭)

 3ヶ年の平均価格として、3円23銭と推定した。

③現在の米の価格(価格差は大きいが、10キログラム当たり4,000円~5,000円程度と推定し、キロ当たり450円とした。)

 1石は150キログラムであるから、

 1石当たりの単価 = 450円 × 150キログラム = 67,500円

④建設費を米の石高に換算 = 約3,160円 ÷ 3円23銭 = 978石

⑤現在価格に換算 = 978石×67,500円 = 66,012、000円となります。


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(函館碧血会・事務局)

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