15.中島三郎助、辞世の句歌
R.02.08.21
中島三郎助、辞世の句歌
函館碧血会
中島三郎助という人は、本来は優秀な技術者でした。この時代に、造船学・航海学・蒸気機関学・砲学などを専門とした開明的な技術者でありました。そしてまた、外交や海防問題にも造詣の深い、有能な幕臣だったのです。榎本武揚が開陽丸でエゾ地に向かうとき、中島三郎助は長男恒太郎、次男英次郎と共に、息子たちと変わらない年齢の、浦賀奉行所の若い与力たちを伴って、エゾ地に向かったのでした。
明治二年五月十六日、新政府軍の備後・薩摩勢を相手に戦ったのですが、旧幕府軍・中島隊に利あらず、中島隊は壮絶な戦いの結果全員戦死し、敗れてしまいました。この戦いが、箱館戦争での最後の戦いとなり、榎本武揚に降伏を決意させた戦いであったといわれます。中島三郎助の戦いぶりは、自分の信じる「士道」を最後まで貫いて、そのことを後世に伝えた、サムライの一人であったことを、思わせるものでした。
しかしその一方で、中島三郎助という人は、俳人・歌人としても知られており、多くの句歌を残した文化人でもありました。とりわけ箱館に来てからは、家族に何通もの手紙を送っており、自分の覚悟と家族への愛情を感じさせる内容の手紙を多く送っていました。特に生まれて二歳になったばかりの三男・與曾八には、その成長への気遣いと家族に将来を託す内容が綴られていました。また母に宛てた手紙には、日付が三月六日とあり、箱館決戦の二か月前であることからも、諸方から知らされる情勢で最後の戦いが迫ったことを知り、最後の別離の手紙を書いたものと思われる。そこには、母よりも先に逝くことを詫びながら辞世の句を詠むという、切ない内容が認められていたといいます。
【家族への手紙と辞世の句】
我等事多年の病身にて若死にいたすべき處、はからずも四十九年の星霜を経しは天幸というべき歟。
このたびいよいよ決戦、いさぎよく討死と覚悟いたし候間、與曾八成長の後は我が微衷をつぎて徳川家至大の御恩沢を忘却致さず往年忠勤をとぐべき事頼入候。
明治二年中島三郎助
おすす殿、與曾八殿、お順殿、おたう殿。
尚尚、御母上様、積年の御高恩をも報ひず御先へ遠行致し候儀、恐入候まま宜敷御申上可被下候此短刀與曾八へ、かたみとして御贈申候。
辞世の句
「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」
【母への手紙と辞世の句】
御母上様 一筆申し上げ奉り候。春暖のみぎりと相成り候処、益々ご機嫌よく御座遊ばされ、恐悦至極に賀し奉り候。随い私幷倅両人共、無事に罷り申し候間、恐れ乍ら御安慮下される可く候。扠、御病気其の後御全快に為成候哉、頓と御左右ご様子も伺い兼ね候て、ご案じ申し上げ候。
私儀、彌今般決戦之上討死と覚悟仕り候。是迄年来容易成らざる高恩を受け、御老年の御前様を差し置き、御先へ遠行仕り候義、不本意の至りに御座候得共、徳川家累代の御恩沢相報せ候上は是非無く仕り合うに存じ奉り候。此の段幾重にも御免遊ばされる可く候。先ずは、御機嫌伺方々早々、此の如く御座候。恐惶謹言。
三月六日中島三郎助中島御母上様
辞世の和歌
「あらし吹く夕べの花ぞ おしまるる あしたまつべき 身にはあらねど」
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中島三郎助父子(函館中央図書館蔵) (上:三郎助、下右:長男・恒太郎、下左:次男・英次郎) |
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| 中島三郎助最期の地碑(函館市中島町) |