函館碧血会

15.中島三郎助、辞世の句歌

中島三郎助、辞世の句歌

 中島三郎助という人は、本来は優秀な技術者でした。この時代に、造船学・航海学・蒸気機関学・砲学などを専門とした開明的な技術者でありました。そしてまた、外交や海防問題にも造詣の深い、有能な幕臣だったのです。榎本武揚が開陽丸でエゾ地に向かうとき、中島三郎助は長男恒太郎、次男英次郎と共に、息子たちと変わらない年齢の、浦賀奉行所の若い与力たちを伴って、エゾ地に向かったのでした。

 明治二年五月十六日、新政府軍の備後・薩摩勢を相手に戦ったのですが、旧幕府軍・中島隊に利あらず、中島隊は壮絶な戦いの結果全員戦死し、敗れてしまいました。この戦いが、箱館戦争での最後の戦いとなり、榎本武揚に降伏を決意させた戦いであったといわれます。中島三郎助の戦いぶりは、自分の信じる「士道」を最後まで貫いて、そのことを後世に伝えた、サムライの一人であったことを、思わせるものでした。

 しかしその一方で、中島三郎助という人は、俳人・歌人としても知られており、多くの句歌を残した文化人でもありました。とりわけ箱館に来てからは、家族に何通もの手紙を送っており、自分の覚悟と家族への愛情を感じさせる内容の手紙を多く送っていました。特に生まれて二歳になったばかりの三男・與曾八には、その成長への気遣いと家族に将来を託す内容が綴られていました。また母に宛てた手紙には、日付が三月六日とあり、箱館決戦の二か月前であることからも、諸方から知らされる情勢で最後の戦いが迫ったことを知り、最後の別離の手紙を書いたものと思われる。そこには、母よりも先に逝くことを詫びながら辞世の句を詠むという、切ない内容が認められていたといいます。

【家族への手紙と辞世の句】

 我等われらこと多年たねん病身びょうしんにて若死わかじににいたすべきところ、はからずも四十九年しじゅうくねん星霜せいそうしはてんこうというべき

 このたびいよいよ決戦けっせん、いさぎよく討死うちじに覚悟かくごいたし候間そうろうあいだ與曾八よそはち成長せいちょうのちは我ちゅうをつぎて徳川家とくがわけ至大しだい御恩沢ごおんたく忘却ぼうきゃくいたさず往年おうねん忠勤ちゅうきんをとぐべきことたのみいりそうろう

 明治めいじ二年にねん中島なかじま三郎さぶろうすけ

 おすす殿どの與曾よそはち殿どの、おじゅん殿どの、おたう殿どの

 尚尚なおなお御母おはは上様うえさま積年せきねん高恩こうおんをもむくひず御先おさき遠行えんこういたそうろうおそれいりそうろうまま宜敷よろしく御申上おもうしあげくださるべくそうろうこのたんとうはちへ、かたみとしておくりもうしそうろう

辞世の句

 「ほととぎす われもく おもかな

【母への手紙と辞世の句】

 御母おんはは上様うえさま 一筆いっぴつもうたてまつそうろう春暖っしゅんだんのみぎりと相成あいなそうろうところ益々ますます機嫌きげんよく御座ござあそばされ、恐悦きょうえつ至極しごくたてまつりそうろうしたがわたくしならびにせがれりょうにんとも無事ぶじまかりもうそうろうあいだおそながあんりょくだされるそうろうさて御病気ごびょうき御全快ごぜんかいされそうろうとん御左右ごさゆう様子ようすうかがそうろうて、ごあんもうそうろう

わたしいよいよこんぱんけっせんうえ討死うちじに覚悟かくごつかまつそうろう是迄これまで年来ねんらい容易よういらざる高恩こうおんけ、御老年ごろうねん御前おまえさまき、御先おさきえん行仕こうつかまつそうろう不本意ふほんいいたりにそうらども徳川家とくがわけ累代るいだい御恩沢相ごおんたくあいしらせそうろううえ是非ぜひつかまつうにぞんたてまつりそうろうだん幾重いくえにも御免ごめんあそばされるそうろうずは、御機嫌伺ごきげんうかがい方々かたがた早々そうそうごとそうろう恐惶きょうこう謹言きんげん

 三月六日中島三郎助中島なかじま御母おんはは上様うえさま

辞世の和歌
「あらしゆうべのはなぞ おしまるる        あしたまつべき にはあらねど」

中島三郎助父子(函館中央図書館蔵)
(上:三郎助、下右:長男・恒太郎、下左:次男・英次郎)
中島三郎助最期の地碑(函館市中島町)