函館碧血会

16.埋葬された土方歳三の行方(1)

埋葬された土方歳三の行方(1)

(1) 函館市大圓寺説

 大正六年(一九一七)に「戊辰戦争戦没者慰霊祭」の五十回忌が、全国各地で行われた。北海道においても「箱館五稜郭戦争戦没者霊位五十回忌供養」として、森町鷲ノ木霊鷲院や亀田郡神山村無量院(現・函館市大圓寺)において盛大に供養祭が執り行われたという。

 土方歳三の遺体は、大圓寺の墓地正面に植えられた大きな二本の松の木の下に埋められていたという口伝があった。五稜郭戦争当時、土方付きの馬方であった吉田松四郎の弁であったという。上記供養祭の席上、出席者全員で「二本松の下に土葬されている遺体は土方歳三である」ことを確認し、この遺体の改葬をしようとその計画が提案されたのであった。しかしこの時、吉田松四郎は、何かにおびえたように頑強に拒んだため、改葬は実現しなかったが「箱館五稜郭戦争戦没者霊位」の墓標だけは二本松の側に建てたという。

 このことがあった翌年、松四郎は明治二年から五十年を過ぎたことを理由に、土方歳三の遺体の改葬に踏み切り、掘り返して遺骨と鎖帷子を火葬した。そして、土方が生前望んでいたという、大圓寺の無縁塚に収めたのだという。

 この無縁塚は元々、文久四年(一八六四)に幕士の斎藤久七郎と石工喜三郎が、五稜郭築造工事に参加して不幸にも途中で斃れた土工夫たちの霊を鎮めるために、建立したものであった。無名の土工たちに対する温かい思いが伝わってくる。

土方歳三は生前「自分の遺骸は箱館奉行所の墓地である大圓寺の境内か無縁塚に埋めて欲しい」と部下に話していたという話も不思議ではない。近藤勇のさらし首や会津戦争で見聞きした西軍の挙動などから、自分の死を考えた時の遺骨を心配して話した言葉だったのだろう。

(「激闘箱館新選組・箱館戦争史跡紀行」、近江幸雄、平成二〇年を参考に編集。)

(2) 五稜郭内の埋葬者

 五稜郭内の南西側のある、かつて「兵糧庫」であったといわれる建物のすぐそばに土饅頭がある。箱館戦争の時代、榎本軍戦死者が埋葬された盛土だということで有名である。ここに埋葬された兵士・将校の氏名を明らかにしたのは、かつて大正元年から七年まで調査を続けたという片上楽天という人であった。調査結果を『五稜郭史』という著書に、以下のような記述を発表している。(文章、文字を読み易いように適宜整理している。)

①春日左衛門 歩兵頭 明治二年五月十一日没
 亀田新道瓦焼場において負傷、郭内に収容して、少年田村銀之助が熱誠なる看護をするが、永眠する。

②酒井兼次郎 改役 明治二年五月十一日没

③川井卓郎(実名・福島直三郎) 改役 明治二年五月十一日没

④松村五郎 改役 明治二年五月十一日没

⑤田上義之助 会計士官 明治二年五月十一日没

⑥田島安次郎 無役少年 明治二年五月十一日没(十六)

⑦石島徳次郎 無役少年 明治二年五月十一日没(十四)

 上記六名は、郭内において籠城者一同最後の決別宴中、官軍「甲鉄」から発射された弾丸を受け、惨死した。

⑧秋山重松 改役 明治二年五月十一日没
 五稜城内に官軍「甲鉄」から発射された弾丸を受け、戦死した。

⑨伊庭八郎 歩兵頭並 明治二年四月十九日没
 これは、明治二年四月十九日、(木古内)札苅海岸にて重傷を負う。郭内に収容後没する。

五稜郭では、片上楽天の調査の先立ち、明治三十二年にまとめられた榎本軍の「史談会速記録」によると、先の春日左衛門を看護した少年の田村銀之助の証言として「旧幕府軍伊庭八郎の墓は、箱館五稜郭の土方歳三の墓の傍らにある」との証言があるという。
この他にも、別の項に書き込みがあり、土方歳三の記録も入れると、五稜郭には、十四人もの英霊が眠っているようである。

 おそらく五稜郭の中には、まだ発見されない遺骨が沢山眠っていることと思います。五稜郭自体が百五十年前の「…つわものどもの夢のあと」ですから、史跡であるとともに慰霊碑でもあるのだということを意識すべきではないか。

(了)

【関連写真集】
五稜郭五稜郭
函館市 無量庵・大圓寺の二本松
(今は、二本松の下に慰霊碑が建てられている。)
大圓寺の「無縁塚」