函館碧血会

17.埋葬された土方歳三の行方(2)

埋葬された土方歳三の行方(2)

 土方歳三の埋葬地を七飯村の閻魔堂だとして地名として挙げ、それを掘り返して遺骨を再火葬して「碧血碑」の周辺に収めたとしたのは、明治25年の『加藤福太郎書簡』の報告内容であった。(小著『ある巡査の書簡から』参照。)それまでには埋葬地を、神山の無量院(大圓寺)とした説や五稜郭内説などがあったが、どちらかというと地名だけが先行した伝説として、伝えられていたような話題であった気がしているのである。

 『ある巡査…』の加藤書簡にある説では、加藤福太郎が実際に調査を手掛けた柳川熊吉から、直接話を聞いて、それを郷里に報告書で報せているのである。その分、話にも具体性が感じられたのである。加藤書簡によると、「柳川亭」に熊吉を訪ねて聞いた話では、土方歳三の遺体がどこにあったのか、明治8年の「碧血碑」を建てた当初の頃にはすでに、巷の噂は入り乱れており、どれが本当のことなのか分からない状態であったという。それを柳川らが尽力して取り調べた結果、箱館からわずかに離れた七重村(現・七飯町)の閻魔堂に土葬されていたことが分かったのだ、というのである。

 土方の遺体は、地元の人たちによって宝物のように大切に扱われていたといわれ、この土方の遺体の扱いを地元の人たちとどうするか、種々話し合いを重ねた結果、再び掘り出して、改めて火葬にしたという。そして明治12年に「碧血碑」の周辺に収めたとのことであった。柳川熊吉はこの話の経緯を、ロシアから帰国したばかりの箱館に立ち寄った榎本にも報告したといっていた。

 閻魔堂の埋葬地にあっただろう土方歳三の墓標には、おそらく「土方歳三之墓」を想像させるようなことは書いていなかっただろうし、箱館戦争と直接関係していない地元の住人たちには、土方のことは榎本軍の重役であったこと以外は、直接的によく理解されていなかっただろうと思われる。いくら立派な人でも地域住民から宝物のように大切に扱われるには、何らかの理由があったのだろうと考えられるのである。

 近年、箱館の豪商・佐野専左衛門の末裔である佐野史人さんの、私小説『系図調査余談(佐野専左衛門に関すること)』を読む機会を得た。それによると、土方歳三は七重浜の「閻魔堂」に埋葬されていたという。この場所は、当時は近くに人家もなく、ひどく寂しい所であったようである。海沿いのわずかに丘を上った、雑木林の中に閻魔堂はあったという。ここは、無縁仏や処刑された人々の遺体を処置し、埋葬した場所であったというのである。

 土方と佐野専左衛門との関係を話しておこう。土方が本務の箱館市街見廻り等を行う際、五稜郭から出かけるのでは不便なので、豪商・佐野家を寓居としていた。佐野屋のすぐ近くにかつての称名寺があり、新撰組がここを屯所としていたことから、土方としては何かと便利であった。土方にとって佐野家は落ち着いた居心地のいい所となり、佐野専左衛門とも気の合う仲となった。家族や使用人も土方によく懐くようになっていたという。

佐野さんの私小説によると、土方歳三が一本木関門で狙撃され、絶命してから閻魔堂に運んだのは、専左衛門の手の者であったという。土方の遺体を大八車にムシロで包んで括り付け、急ぎ通りに出た頃にはもはや五稜郭には行くことが出来ず、急遽閻魔堂を目指したのだという。

 箱館からわずかに離れた閻魔堂とは、現在の函館市𠮷川町にある極楽寺である。幕末の頃の箱館の街区境は、一本木若しくは海岸町の辺りであるから、まさしく箱館をほんの少し離れたところだったのである。箱館戦争が終り、明治の極早い時期に閻魔堂の跡地に、佐野専左衛門が極楽寺を建てたのである。専左衛門は、埋葬された土方歳三の遺体が簡単には見つからないように、二重三重になぞかけをして後世に誤解を誘っていたのだともいわれる。例えば寺内に自分の墓所を3カ所も設けていたとか、埋葬地は神山大圓寺だとか、五稜郭内ではないか、という情報を出しては、人々を迷わせていたという。

 豪商・佐野屋は明治に入って、場所請負人制度が廃止されたため、亀田町の現在のガス会社付近に店を構え、醤油製造販売会社を始めたのである。亀田町と𠮷川町は歩いても10分程度の、目と鼻の先であり、埋葬地はいつでも大切に世話することが出来る。しかも極楽寺は自分が建てた寺であり、自分の思い通りに管理運営することが可能である。地元の人というのが佐野屋の関係者であれば、墓を宝物のように大切に扱っていたことも、柳川熊吉が遺体を掘り返して、再度火葬に付することへの話し合いにも、当然応ずることの出来る人たちであったと考えられる。

『加藤福太郎書簡』に書かれた内容と「佐野氏の私小説」の内容は、何の打ち合わせも行っていないが、良く符合しているのである。二つの話題を時系列に並べても、不自然さはない。

箱館戦争が終り遺体を収容したのが明治2年のことである。佐野屋が亀田に支店を設け醤油製造販売会社を始めたのが明治7年である。碧血碑が函館の地に建てられたのが明治8年である。閻魔堂が極楽寺として立て直されたのが明治10年頃とされ、佐野屋の本店を亀田に移したのは明治12年のことであり、そして柳川熊吉と話し合いのうえ再火葬したのも同じ明治12年である。函館市の主要の寺院の墓所から旧幕府軍の遺骨二百数十人分を掘り返して碧血碑周辺に収めたのは宮路助三郎で、明治14年のことであった。吉川町の極楽寺の墓と遺骨を守り続けていた佐野専左衛門は、全てが終ったからか明治15年に静かに病死したという。

このように、二つの話題はスムーズにつながっているように思えるのである。ただ、残念なのはこれまでの土方歳三埋葬説の、どの説にも共通して言えるのであるが、決定的な証拠が出てきていないのである。例えば、埋葬された人物の持ち物とか、着ている服装の特徴とか、最近であればDNA検査の結果とか、そうした証拠になるものがあって、その後に物語で補強されていれば、もっと違う見方がなされたのだろうと思われるのである。

土方歳三の埋葬地に近づくためには、もう少し時間が必要なのかもしれない。

(了)  

【写真帳】

【関連写真集】
吉川町、極楽寺(元「閻魔堂」)極楽寺、墓地境内
元称名寺(「箱館新撰組屯所」)があったとされる場所
現在は「函館元町ホテル」が建っている。
「箱館新撰組屯所」があったとして、説明している「観光用の看板」
函館市大町界隈
かつて、この付近に「丁(ちょうさ)佐野屋」があったといわれる。