18.箱館・榎本軍の群像
R.02.08.30(一部修正 R.03.01.22)
箱館・榎本軍の群像
函館碧血会
1.総裁・榎本武揚
幕臣の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダに留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、明治元年の「戊辰戦争」では旧幕府軍を率いてエゾ地を平定した。五稜郭で「入れ札選挙」を行い旧幕府軍の総裁となった。同2年の「箱館戦争」で敗北して降伏し、東京の牢獄に2年半投獄された。
敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任し、子爵となった。 また、殖民協会を創立し、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設した。
2.副総裁・松平太郎
幕臣の子として生まれ、江戸の仏学者の塾に入門する。幕府では文久年間には奥右筆、慶応3年には外国奉行支配組頭となった。
慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が始まると、歩兵頭を経て陸軍奉行並に任命される。主戦論者だった松平は大鳥圭介らと図って、自らも新政府軍への抗戦に参加するため江戸を脱出し、日光・今市で大鳥と合流した。その後会津戦争で敗れると、榎本らと共にエゾ地へ渡った。
蝦夷地平定後に行われた旧幕府軍の「入れ札選挙」では、榎本に次ぐ得票を得て、副総裁に就任した。主に民政・外交面で活動し、榎本の女房役を務めた。榎本の「洋才」に対し、松平の「和魂」と言われ、人望は厚かったという。明治2年(1869年)5月の新政府軍の箱館総攻撃の際には、奮戦するも叶わず降伏した。
3.海軍奉行・荒井郁之助
江戸・湯島天神下の組屋敷に生まれる。御家人の子で、幼名は「幾之助」といった。7歳より漢学・儒学を学び、8歳で昌平坂学問所に入門する。12歳より叔父の薦めで、下谷御徒町の直心影流の剣術を学ぶ。ほかにも弓術や馬術を学び、2 0歳で幕府に出仕し、西洋砲術や蘭学も修めて、軍艦操練所の教授を命じられた。
荒井は、航海術・測量術および数学にも通じ、文久2年(1862年)9月には軍艦操練所頭取に就任、松平春嶽や徳川慶喜らの要人を船で大坂まで送迎していた。
慶応4年(1868年)1月に軍艦頭を命じられていたが、海軍副総裁榎本武揚らと共に新政府軍支配下に置かれた江戸を脱出、箱館戦争に身を投じることとなる。
箱館五稜郭、旧幕府軍の政権下では海軍奉行を務め、宮古湾海戦および箱館湾海戦に奮闘する。
4.陸軍奉行・大鳥圭介
天保4年(1833)播州赤穂の村医者の子として生まれる。岡山藩閑谷学校で漢学を学び、適塾で医学を学ぶ。のちに旗本となり、開成所教授から歩兵奉行となり、伝習隊を結成する。戊辰戦争では東北戦争後、旧幕府軍の箱館・五稜郭の戦いに参加し、エゾ地を平定し、陸軍奉行となる。箱館大決戦では、新政府軍に負け、東京辰の口の軍務官糺問所の牢獄に投獄される。
明治5年に榎本武揚等と共に赦免された。箱館戦争後、旧幕臣たちの遺体を埋葬した箱館市民の事を知った大鳥圭介や榎本らが、募金を集めて「戊辰戦争の最終地・函館」に碧血碑を建てることを思い立ち、計画された。明治6年に大鳥圭介が函館の地を実際に踏査して場所を決め、翌明治7年には東京霊岸島に石材の彫刻を発注している。
5.海陸裁判局頭取、箱館市中取締役・竹中重固
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旗本・竹中元幸の長男として生まれる。のち、本家である旗本・竹中重明の養嗣子となる。元治元年(1864)に幕府の陸軍を創設後、陸軍奉行に就任した。
慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いでは主戦派として伏見奉行所へ出陣するが、幕府軍敗北によって罷免・官位剥奪される。一時は出家したものの、のちに純忠隊を結成し、彰義隊の支部隊として新政府と交戦した。彰義隊の敗退後は、輪王寺宮を奉じて奥羽を転戦し、のちに箱館五稜郭の海陸裁判所頭取に就任した。明治2年(1869)、箱館戦争終結前に英国汽船で東京へ向かい、5月28日、養父竹中図書の薦めにより投降した。
6.陸軍奉行並、海陸裁判局頭取、箱館市中取締役・土方歳三
天保6年(1835)、武蔵国多摩郡石田村に生まれる。10人兄弟の末っ子であった。土方家は多摩の豪農であったが、父は歳三の生まれる3か月前に結核で亡くなっており、母も歳三が6歳のときに同じ結核で亡くなっている。
土方歳三は京都新撰組にあっては、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、数々の武名を顕した。後に新選組は幕府によって最後に取り上げられた幕臣となった。戊辰戦争に入ってからの土方は、旧幕府軍の指揮官の一人として、各地を転戦した。
最期の地、箱館・五稜郭では「陸軍奉行並」および「箱館市中取締役」という立場で、軍事・治安部門の責任者の一人となって活動していた。明治2年5月11日(1869)の、箱館戦争最後の戦いとなった新政府軍の箱館市街総攻撃においては、新撰組が立てこもる弁天台場を援護しようと一本木関門付近で新政府軍と戦っていたが、馬上の土方は銃で狙撃され戦死したといわれている。
土方の戦死した場所や埋葬地については諸説があり、未だに特定されていない。享年34歳であった。
天保6年(1835)、武蔵国多摩郡石田村に生まれる。10人兄弟の末っ子であった。土方家は多摩の豪農であったが、父は歳三の生まれる3か月前に結核で亡くなっており、母も歳三が6歳のときに同じ結核で亡くなっている。京都新撰組は、幕末期の最期の幕臣となった。土方歳三は、その京都新撰組の副長として活躍した。箱館五稜郭に来てからの旧幕府軍の中では、陸軍奉行並として活躍していた。
京都新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、エゾ地に来てからの箱館戦争では、旧幕軍の指揮官の一人として各地を転戦し、戦いは常に勝利していた。またいわゆる「旧幕府軍」の組織内では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執っていた。明治2年5月11日(1869)、箱館大決戦の戦いで、新撰組がこもる弁天台場を援護しようと一本木関門で新政府軍と戦っていたが、馬上の土方を銃で狙撃され戦死したといわれている。
土方の戦死場所・埋葬地については、諸説あり、未だに特定されていない。享年34歳。
7.箱館奉行・永井玄蕃頭尚志、同並・中島三郎助
[永井玄蕃頭尚志]
幕末の旗本。三河国奥殿藩五代藩主の子、二五歳で永井家の養子となった。
井伊直弼の没後、京都町奉行に復帰し、慶応三年(1867)には若年寄にまで出世する。鳥羽・伏見の戦いの後に、時の将軍慶喜に従って江戸に戻り、徳川家が駿府に転封が決まってからは、榎本武揚と行動を共にし、エゾ地に渡った。
榎本軍がエゾ地統一後、「入れ札投票」を行ったが、この結果をもとに箱館奉行に就任したという。しかし、明治二年五月十四日の戦いで、最初に降伏したのが弁天台場の守備にあたっていた永井らであった。永井は降伏後も、五稜郭の榎本武揚等にしきりに降伏の勧誘を行っていたという。
箱館戦争が終って永井は、明治五年に明治政府に出仕し、開拓使御用掛を経て、同八年には元老院権大書記官に任じられている。
[中島三郎助]
幕末時代の幕臣で、江戸幕府の浦賀奉行所与力であった。のち、榎本と共にエゾ地に渡り、榎本政権下で箱館奉行並を務める。
生国は相模国で、文政四年(1821)に浦賀奉行所与力の子として生まれる。代々与力を務めてきた家柄であった。若い頃から砲術の才能があり、また父から俳諧や和歌の手ほどきも受けていた。喘息の持病もあったという。
嘉永六年(1853)、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航した際に、副奉行と称してアメリカ側と交渉。ペリー帰国後、老中阿部正弘に意見書を提出。この中で、江戸幕府も軍艦の建造と蒸気船による艦隊の設置を主張している。
安政二年(1855)、江戸幕府が新設した長崎伝習所に第一期生として入所し、造船学、機関学、航海学などを修めた。戊辰戦争が始まると、海軍副総裁・榎本武揚等と行動を共にして、エゾ地に向かった。榎本政権下では、箱館奉行並、砲兵頭並を務めた。
箱館戦争最後の「千代ヶ岡陣屋の戦い」では、それに先立つ軍議で榎本軍全体としては降伏するべきであると主張するものの、自身は榎本らの説得には応ぜず、同陣屋の戦いで討ち死にすることを公言し激戦の末戦死した、四十九歳であった。この戦いで、長男恒太郎(二二歳)、次男英次郎(十九歳)と共に浦賀から来ていた腹心の与力らも戦死した。
「函館碧血会」が碑前慰霊祭を行う六月二十五日という日は、旧暦の五月十六日に当たり、箱館戦争最後の戦いが行われた「千代ヶ岡陣屋での戦い」の日であり、全ての戦いが終わった日を「慰霊の日」としているのである。
8.松前奉行・人見勝太郎
幕末の幕臣。京都に生まれ、慶応三年に二四歳で遊撃隊に入隊し、将軍慶喜の護衛にあたる。
鳥羽・伏見の戦いの後、江戸に撤退したが、徹底抗戦を主張し、伊庭八郎ら主戦派と共に小田原箱根などで新政府軍と戦った。奥羽越列藩同盟にも関与し、東北地方を転戦後エゾ地に渡った。
箱館戦争では、渡道後先ず箱館府知事・清水谷公考に嘆願書を渡す使者に任命されたが、途中七飯峠下村で新政府軍と戦いが生じ、使者としての役割はかなわなかった。榎本政権下では、松前奉行に就任していた。翌明治二年五月の箱館総攻撃では負傷してしまい、箱館病院に入院していた。
明治維新後は、同十四年に静岡・徳川家の「静岡学問所」の校長に当たる大長に就任している。その後は、群馬県営工場の所長、茨城県令などを歴任し、サッポロビールや台湾小脳の会社設立にも関与していた。
明治三十年代には、度々「旧幕府」主催の史談会に参加して、幕末・維新の談話を残していた。
9.江差奉行・松岡四郎次郎、同並・小杉雅之進
[松岡四郎次郎]
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松岡四郎次郎は、幕臣の子として江戸に生まれたとされるが、生い立ちなど詳しい事はよく分かっていない。松岡はもともと旧幕府軍の一連隊の隊長であったが、仙台で榎本隊と合流しエゾ地に渡ったのであった。
厚沢部の「館城の戦い」で松岡は、二百名の連帯を率いて館城を陥落させた。その手柄からか、榎本政権下では江差奉行となった
明治二年の新政府側からの攻撃は、榎本軍を大きく上回る兵力であった。松岡隊に伊庭八郎や春日左衛門らの応援もあったが、新政府軍の圧倒的な勢力の前には為す術がなかった。箱館に戻った松岡は、箱館市街総攻撃に備えて「四稜郭」で守備を固めていたが、途中の「権現台場」が陥落し、退路が断たれたため、五稜郭に敗走した。。
箱館戦争終結後は、北海道開拓使に出仕したようであるが、その後函館の谷地頭に住んだとか、北海道の炭鉱経営に加わったが失敗したとか、その生い立ちは、これもはっきりしないことが多いようである。
[小杉雅之進]
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江戸時代の幕末の武士であり、幕臣であった。安政四年(1857)十五歳で長崎海軍伝習所で機関学を学ぶ。その後は、軍艦操練所の教授方手伝となり、万延元年(1860)咸臨丸の太平洋横断時には、蒸気方の見習士官を務めた。榎本が開陽丸と共にオランダから帰国する際に、乗組員として一緒に帰国している。慶応三年(1867)には軍艦蒸気役一等となり、開陽丸の機関長を務めた。以来榎本とは、ずっと行動を共にしている。箱館戦争では、榎本に従いエゾ地に来て、江差奉行並となっている。
小杉は、絵を描くのも文章を書くのも得意で、箱館戦争後の弘前幽閉期間に箱館戦争の体験記『麦叢録』とその附図を書いている。箱館戦争赦免後の明治七年に内務省十等出仕をはじめとして、農商務省二等属、逓信省準奏任、大坂船舶司検所長などを歴任した。
10.開拓奉行・澤太郎左衛門
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天保五年(1834)江戸に生まれる。幕末から明治期にかけての幕臣であり、新政府軍の海事教官であった。
安政四年(1857)、長崎海軍伝習所の第二期生として選抜され、ここで榎本と知り合う。また、同様に指導役としての勝がいた。その後、築地軍艦操練所教授方手伝役に任命され、海事砲術の教授となった。
文久二年(1862)、幕府がオランダに「開陽丸」の建造を発注した際、榎本らと共にオランダに留学する。慶応2年(1866)に、完成した「開陽丸」を引き取り日本に帰る。帰国後、澤は開陽丸の軍艦頭並(副艦長に相当)に任命されている。
慶応四年(1868)に戊辰戦争が始まり、榎本らと共に開陽丸を旗艦とした戦隊でエゾ地に向かった。エゾ地での澤は、開陽丸の艦長に任命されている。明治元年十一月十五日、松前藩を攻めていた榎本軍は、援護のため開陽丸を江差沖に派遣した。開陽丸を派遣するほどのことはなかったが、その威力を見せつけてやりたかったのであろう。しかし、不運にもその夜、嵐のため開陽丸は座礁沈没してしまったのであった。翌十二月に、榎本政権下で「入れ札選挙」の結果から、澤を開拓奉行に選任した。そして翌年の一月には、早速室蘭に赴任している。
「五月十七日に至って榎本政権は新政府軍に降伏した。」との報を受け、澤も室蘭で降伏した。そして七月には東京に送致され、入牢した。明治五年(1872)特赦により放免され、のち新政府の兵部省出仕を求められる。海軍兵の学寮の教授となる。明治十九年(1886)に海軍一等教官で退官している。五十三歳であった。
11.会計奉行・榎本対馬道章、川村録四郎
[榎本対馬道章]
天保四年生まれ。江戸時代幕末の旗本。官名が対馬守であり「対馬」と呼ばれる。旧姓は高林であり、榎本林右衛門方へ養子に入る。
文久三年(1863)に一橋家の目付となり、慶応二年には徳川慶喜の徳川家相続に尽力し、同年八月に幕府の目付となる。将軍慶喜は、慶応四年一月戊辰戦争の最中に大坂城を抜け出し、江戸に帰還した。榎本対馬はこの時、大坂を抜け出した慶喜に同行していた。同年八月には、旧幕府艦隊でエゾ地に渡り榎本政権の下では会計奉行に就任している。
明治二年(1869)五月に榎本政権は新政府軍に降伏し、榎本対馬は謹慎していたが、翌三年(1870)には静岡藩に帰参を果している。その後は、明治政府の開拓使に出仕している。
[川村録四郎]
川村録四郎については、ほとんど何も分かっていない。エゾ地での榎本政権下では、榎本対馬と共に会計奉行に就任していた。箱館戦争が終結する頃には海軍取調方として、箱館奉行・永井玄蕃の補佐役も勤めていた。弁天台場降伏の前日である五月十四日に、新政府軍・田島圭蔵の要望を受けて、永井玄蕃と川村録四郎は五稜郭に赴き、榎本武揚と田島の会談を仲介した。その結果、弁天台場は五月十五日に新政府の勧告を受け入れて、降伏した。箱館戦争が終って、川村は特赦で出獄することが出来、明治政府の逓信省書記官を勤めたとされる。
12.旧幕府軍、軍事組織の再編成
榎本武揚は、箱館総督府・松前藩との戦いが終った後、フランス人軍事顧問のブリュネの意見を取り入れて、軍の組織機構を再編成することとした。近い将来、新政府軍と本格的に戦うことになるだろうから、その備えを整えておく必要があった。そして、江差、松前、鷲ノ木などの主要な沿岸地域に守備隊を配置することとした。また、江差沖で沈没した開陽丸の乗組員は「開拓方」と組織替えして、陸上で働かせることにした。これを管理する「開拓奉行」には、開陽丸の艦長であった澤太郎左衛門を指名し、室蘭方面の開拓と沿岸防備にあたらせた。
(1) 榎本政権の組織体系図
旧幕府軍の軍事組織の概要を添付図に示す。大きくは、陸軍と海軍に分かれている。陸軍の特徴は「四つの列士満(レジマン)」に分けていることである。「列士満(レジマン)」とは、フランス語で連隊を意味する言葉の発音であるが、これをそのまま当て字にしたものである。
(2) 陸軍(陸軍奉行…大鳥圭介、陸軍奉行並;土方歳三)
【第一列士満】
第一大隊…瀧川充太郎、四個小隊、伝習士官隊、 小彰義隊、神木隊。
第二大隊…伊庭八郎、七個小隊、遊撃隊、新選組、彰義隊。
【第二列士満】…本田幸七郎
第一大隊…大川正次郎、四個小隊、伝習歩兵隊。
第二大隊…松岡四郎次郎、五個小隊、一聯隊。
【第三列士満】
第一大隊…春日左衛門、四個小隊、春日隊。
第二大隊…星恂太郎、四個小隊、額兵隊。
【第四列士満】…古屋佐久左衛門。
第一大隊…永井蠖伸斎、五個小隊、衝鋒隊。
第二大隊…天野新太郎、五個小隊、衝鋒隊。
【砲兵隊】…関広右衛門
【工兵隊】…小管辰之助、吉沢勇四郎
【器械方】…宮重一之助
【函館病院長】…高松凌雲、【頭取】…小野権之丞
(3) 海軍(海軍奉行…荒井郁之助)
【開陽丸(かいようまる)】…澤太郎左衛門(一八六八年十一月、江差沖にて沈没)
【回天丸(かいてんまる)】…甲賀源吾(のち根津勢吉、一八六九年五月、箱館港にて自焼)
【第二回天丸(だいにかいてんまる)】…小笠原賢蔵(一八六九年三月、九戸港にて自焼)
【蟠竜丸(ばんりゅうまる)】…松岡磐吉(一八六九年五月、箱館港にて自焼)
【千代田形(ちよだがた)】…森本弘策(一八六九年四月、箱館港にて座礁)
【神速丸(じんそくまる)】…西川真蔵(一八六八年十一月、江差沖にて沈没)
【輸送船】…太江丸、長鯨丸(ちょうげいまる)、鳳凰丸(ほうおうまる)、長崎丸(ながさきまる)、美賀保丸(みかほまる)、回春丸(かいしゅんまる)
13.フランス人・軍事顧問団
慶応三年(一八六七)から、横浜で幕府・伝習隊の教練をしていたフランスの軍事顧問団から、副隊長ジュール・ブリュネら五人が、フランス軍籍を離脱してエゾ地の榎本軍に参加した。これを知ってフランス・海軍から二名が加わり、横浜在住の民間人で軍歴を持っていた三名の、合計十名のフランス人が、エゾ地の旧幕府軍に参加した。ジュール・ブリュネは陸軍奉行・大鳥圭介の補佐役となり、四つの「列士満」はフランス軍人(フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエ)を指揮官としていた。また、海軍の二人と、元水兵の一人は、宮古湾海戦に参加していた。
最終的にフランス軍人らは、箱館戦争終了直前に箱館沖に停泊していたフランス船に脱出している。これらフランス軍人の通訳は、横浜仏語伝習所でフランス語を学んだ田島金太郎らが担当していた。
大鳥圭介の『
(了)



