19.箱館戦争と関連する施設
R.03.02.02
箱館戦争と関連する施設
函館碧血会
(※)本稿は、近江幸雄氏が発行した『激闘箱館新撰組・箱館戦争史跡紀行』(平成20年、三和印刷)の記事を参考にまとめたものです。なお、近江幸雄氏は、「函館碧血会」の役員に就任されております。
1.五稜郭
五稜郭は、安政元年(1854)に、箱館奉行の竹内保徳と堀利熙の建議により建設が認められた城郭である。わが国で最初の洋式築城の五稜郭は、安政3年(1856)に着工し8年後の元治元年(1864)に完成した。設計・監督は蘭学者の武田郁三郎である。面積はおよそ25万平方メートルで、建設費用は18万3千両であったという。
城郭としての特徴は、火砲の発達により旧来の日本型の城では防禦の方法が少ないため、五稜郭は、その対応策として土塁を多く築き、濠を巡らし、稜堡と呼ぶ5つの突出部を作って、どの方向から攻撃されても応戦可能な機能を備えた。
慶応3年(1867)10月、徳川幕府が「大政奉還」して新しい政治体制を作ろうとしたが、薩長連合と一部の公家による王権復古のクーデターが断行され、慶応4年1月に戊辰戦争が始まったのであった。
戊辰戦争の中で、最後の戦いは箱館戦争であった。明治2年(1869)5月11日の箱館市街総攻撃は、壮烈な戦いであった。新政府軍は、箱館山の裏手、寒川に上陸し、箱館山を乗り越えて市街地に突入した。この奇襲作戦により弁天台場を孤立させた。
港内海戦では、幕艦・蟠龍の一弾が新政府軍朝陽の火薬庫に命中し、一瞬のうちに轟沈してしまった。劣勢に立たされた旧幕府軍は、この光景に勇気を得、陸軍奉行・土方歳三は手勢を率いて一本木を目指し、弁天台場の救援を目指したが、馬上を狙撃され絶命してしまった。
翌12日、五稜郭内で衝鋒隊の隊長・古屋佐久左衛門と隊士たちが最後の酒宴を開いていた。そこへ、新政府軍の旗艦・甲鉄が五稜郭の楼閣目がけて艦砲を発砲した。これが五稜郭内に命中し、隊員らは死傷した。
箱館戦争は、5月16日の「千代ヶ岱陣屋の戦い」を最後に、榎本武揚は新政府軍に降伏した。五稜郭は、箱館戦争の主要部隊であった。
(『激闘箱館新撰組・箱館戦争史跡機構』、近江幸雄、三和印刷、平成20年を参照とした。)
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| 五稜郭の図(市立函館博物館特別展図録より) | 五稜郭公園内から五稜郭タワーを望む |
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| 五稜郭奉行所、後に榎本軍本部となる。(復元模型) | 五稜郭の石垣 |
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| 五稜郭から入口方向を望む | 五稜郭外堀 |
2.四稜郭
五稜郭から北東側に進み、鍛冶・神山地域を通り、なだらかな丘陵地帯を4キロメートルほど行くと四稜郭がある。土塁の形状は郭を四方に配し、さながら蝶が羽を広げたような形をしている。大きさは、東西に約104メートル、南北には約65メートル(どちらも最大幅)の四稜形である。上幅2.7メートルの土塁は、延長約285メートルで郭内を囲んでいる。土塁の外側には深さ0.9メートルの空堀が延長約245メートル続いている。四稜郭の総面積は、約3,600平方メートルである。
四稜郭築造の目的は、旧幕府軍の本拠地五稜郭の背後を防禦することにあった。明治2年(1869)4月、兵士200人と付近の住人約100人を徴用して、昼夜兼行で数日間のうちに完成させたという代物であった。従って、婦人たちも駆り出され、炊き出しなどに協力させられたという。
名称を「新五稜郭」ともいったようである。徳山藩士の記録「奥羽並蝦夷出張始末」には、フランスの仕官ブリューネが築いたとある。ブリューネは防禦陣地の構築・砲台の設置と練兵が主要任務であった。
四稜郭での戦況について述べておく。5月11日、箱館市街総攻撃の日の早朝、徴収・岡山・徳山・福山の各藩の兵千人が攻撃を開始した。村人たちが物陰に隠れて見ていると、刀を打ち合う刃の光が朝日にキラキラと光り、喊声と怒声が聞こえてきたという。岡山藩の記録では、「神山村の新五稜郭と称し候ところに、北手より当藩の精鋭隊である一小隊を進撃させた。また東の山の峰通りより、当藩三番隊一小隊が攻撃致し候ところ、賊軍は大小砲を厳しく立て…」(現代語訳、筆者)と、激しい攻防を述べている。
この戦闘における新政府軍・岡山藩の戦死者は三名で、受傷者は六名であったという。一方、旧幕府軍の死者は氏名不詳の三名だけで、退路を断たれることを恐れて死体を残して撤退したという。
ところで、四稜郭の発見は意外と新しく、昭和3年に函館商業高校の教諭が東照宮の由来を調査中に偶然発見されたのだという。その後も掲示板が無ければ通り過ぎてゆくような土塁だけが残っていた。後に亀田町(現・函館市)が郭内外の復元と整備に努め、今では箱館戦争と五稜郭を語る時、四稜郭は規模こそ小さいが、その話題から外せない建造物になっている。
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| 四稜郭空撮写真(函館市教育委員会) | 四稜郭入口部 |
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| 四稜郭築堤 | 四稜郭内部 |
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| 四稜郭内部 |
3.一本木関門
一本木という地名は、現在の函館市若松町辺りであるという。幕末当時、松浦武四郎の『蝦夷日誌』によると「亀田箱館ノ境也」とあるという。この頃には、箱館の入り口になっていた箇所である。現在はこの一本木の地に「土方歳三戦死の地」として函館福祉センター前庭に「一本木関門」の復元模型と「土方歳三最期之地碑」が建立されており、供花が絶えない。
明治元年(1868)10月26日、五稜郭へ無血入城した旧幕府軍は、諸行政に乗り出すが、何せ財源がない。そこで苦肉の策として、一本木から大森まで木柵を張り、「一本木関門」とした。この関門を通り箱館と亀田の間を往来すると、通行税として一人百六十文が徴収された。名目はあくまでも警備上の措置であるが、地域住民からは頗る評判が良くなかった。
明治2年5月11日、新政府軍からの箱館市街総攻撃があった。この日の戦いで、激戦の舞台となったのはやはり一本木関門であった。戦いの様子を須藤隆仙先生の「箱館戦争資料集」から、関係分を抜粋しながらその概要を見ていくこととしよう。
① 政府軍の『慶応出軍線状』から
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② 軍方箱館戦争記録『新開調記』から
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とあり、箱館山裏側から上陸しての奇襲が成功し、市内を縦断した様子が伺える。
③ 幕軍一連隊、石川忠恕の『説夢録』から
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④ 義隊、丸山利恒『北州新話』より
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⑤ 台額兵隊の荒井宣行「『蝦夷錦』より
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⑥ 選組隊士石井勇次郎『戊辰戦争見聞略記』より
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土方戦死の状況を側近が語った大きな証言である。
箱館港内での海戦は、唯一航行可能な蟠龍艦の活躍で新政府軍朝陽と丁卯を相手に砲戦し、蟠龍の一弾が朝陽の火薬庫に命中し瞬時に轟沈した。これを見て陸上の幕軍方は狂喜乱舞したのであった。しかし、自艦も被弾して大町の浅瀬に乗り上げ、松岡盤吉外乗員は弁天台場に入った。また、回天は航行不能のため沖之口にて留まり、砲台として砲戦を行い遂に大破して、一本木を経て五稜郭に入った。戦将は荒井郁之助である。
一本木関門での攻防は、5月11日1日で終わった。
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| 一本木関門(復元模型) | 一本木関門(復元模型) |
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| 一本木関門(復元模型) | 土方歳三慰霊碑 |
4.千代ヶ岡陣屋
「千代ヶ岱陣屋」ともいう。亀田にほど近い所から、縁起を担いで地名を千代ヶ岡にしたものと思われる。今ではあまり目立たないが、この辺りは丘陵地で市街と港を一望に見渡せる要衝地であった。現在付近一帯には、中島小学校、千代ヶ岱球場、同陸上競技場などがある。
前幕領時代(1802-21)には、仙台藩の陣屋であったが、安政2年(1855)に津軽藩の陣屋となった。東西130メートル、南北150メートルの高さ4メートルの土塁と堀に守られていた。幕府の「大政奉還」が行われると、津軽藩は陣屋を空き家にして帰国してしまう。
明治元年(1868)5月に、清水谷公考が総督となって五稜郭に入り、箱館裁判所という行政府を開いたが、半年後の10月20日には榎本鎌次郎率いる旧幕府艦隊が鷲ノ木村(現・森町)に上陸して来た。折から新政府軍には、福山・大野藩も応援に入っていた。
七飯峠下において両者の戦端が開かれ、箱館戦争が始まった。当初は旧幕府軍が圧倒的に強く、10月26日には旧幕府軍は五稜郭に入城している。後に松前藩とも戦い、福山城、館城を陥し、エゾ地を平定してしまった。
翌明治2年4月、新政府軍は乙部に上陸し、江差・松前・木古内などを奪還し、徐々に箱館に迫って来た。そしてついに、5月11日に至って箱館市街地の総攻撃を開始したのであった。土方歳三は、この千代ヶ岡陣屋にて新撰組大野右仲と最後の会話を交わし、一本木関門に向かったという。この後に歳三は戦死するのであった。
千代ヶ岡陣屋の守将は浦賀奉行所の与力を務めた中島三郎助・恒太郎・英次郎父子と浦賀から同行した同志の五十余名であった。三郎助は、箱館奉行並に就いている。箱館戦争最後の決戦の日は、5月16日であった。その前日、本営の五稜郭から帰城を迫る連絡を受けながら、中島三郎助以下は「徳川三百年の恩顧に報いる」として、これを無視したのであった。16日午前3時に新政府軍の攻撃が開始された。互いに砲戦に及び、新政府軍は表門(正門)に迫った。門前にて白兵戦となった。これを皮切りに、他の兵士は土塁を乗り越えて陣屋内に入り、諸所で白兵戦を展開している。午前4時頃には守兵の一部が敗走する。しかし、中島三郎助は胸を撃たれて堀の内で死に、恒太郎は刀を振るって敵中に入る。英次郎は脇腹を撃たれて大手前に死す。浦賀から来た同志たちもみな立派に戦ったという。
箱館戦争の旧幕府軍殉難者慰霊を祀る「碧血碑・碑前慰霊祭」は、6月25日に執り行われるが、これは旧暦5月16日の「千代ヶ岡陣屋陥落の日」としているのである。昭和49年5月19日に、旧松川中学校前のグリーンベルトに「中島三郎助父子最期の地」碑が建立された。
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| 千代ケ台御場所地面 御陣会割合図 | 千代ヶ丘陣屋の概要(御陣会割合図等から再現) クリックで拡大 |
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| 中島三郎助父子らが眠る千代ヶ岱陣屋跡 | 同地に建つ中島父子の慰霊碑 |
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| 千代ヶ岱監獄所 (明治18年(1885)千代ヶ岡陣屋は、千代ヶ岱監獄所になった。) |
5.弁天台場
外国からの侵略に備えるために北方気美の要害として、五稜郭・弁天台場の築造を箱館奉行所が幕府に進言し、これを認めて幕府は着工に踏み切った。箱館港の入り口を守るのに適切な位置にある台場であった。
設計監督は五稜郭と同じ、蘭学者の武田斐三郎であり、埋立・土塁工事は松川弁之助が、石垣工事は井上喜三郎が担当した。着工は安政3年(1856)で、竣工は足掛け8年目の文久3年(1863)であった。周囲711メートル、高さ11メートル、砲門の備えは15門で、堅牢無比な砲台であった。「弁天」という名前は、この岬に弁財天が祀られていたからであったが、現在は台場の跡形も、当時の勇姿も絵画と写真でしか推し量ることしかでいないのである。
明治2年(1869)の箱館市街地一斉攻撃が始まる少し前、4月後半からの、弁天台場の攻防を見てみることにしよう。まず4月24日の攻撃である。朝7時30分、新政府軍の軍艦が港内に侵入し、9時45分には旧幕府軍の弁天台場との砲戦も一段と激しくなる。10時30分に弁天台場よりの発砲が続き、砲弾雨の如しであった。11時40分、新政府軍の艦船はたまらず港外に後退した。午後2時20分に再び新政府艦は港内に突入するが、弁天台場からの砲撃が激しく、16時20分には新政府艦は木古内方面、泉沢に帰航した。同25日、26日も、海戦があり、29日には、新政府艦春日が弁天台場を砲撃した。
5月1日、新政府艦の甲鉄以下5艦が箱館港内を攻撃する。3艦は海上封鎖をするも、幕艦3館と海戦が始まった。幕艦は港外に逃走するも、新政府艦がそれを追跡する。しかし弁天台場から80斤巨砲を打ち込み、同時に幕艦が突然方向を転じて攻勢をかけて来たため、新政府艦はたまらず敗走した。この戦いで幕艦蟠龍は一時航行不能に陥り千代田は座礁後新政府軍に分捕られてしまった。同2日、弁天台場の砲撃により、新政府艦甲鉄は被弾した。
5月3日、港内に侵入する新政府軍の軍艦を、迎撃しようとした弁天台場の砲手が発砲しようとしたが、火口に釘が打たれていた。急遽鍛冶職を呼び修理に当たったが、復旧したのは夜に入ってからであった。台場を守備する新選組の必死の捜査が始まり、谷地頭に潜伏していた新政府軍・在住隊の齋藤順三郎を発見して捕まえた。斉藤は台場前で斬首の上、3日間晒し首の刑であったという。
同7日、甲鉄艦の砲弾が回天に命中し、6人が戦死した。弁天台場にも放射している。
同11日、箱館市街地一斉攻撃の日であった。港内の旧幕府艦は蟠龍のみとなってしまった。蟠龍は縦横無尽に活躍し、一発の砲弾が朝陽間に命中し、瞬時のうちに沈没した。死傷者は53人であったという。市民の記録によると「台場より大砲打出し、山川も崩るるばかり、玉の飛事数知れず、其恐しき事、言語道断」とあったという。
同12日、台場に向けて海陸からの発砲が続いた。守備兵は壁に拠り、持てる限りの力を尽くして大砲・小銃を連発したので、政府軍は弁天台場に近づくことが出来なかった。
13日も海陸から新政府軍は迫った。砲声は雷鳴の如く轟き、守備兵も固く守り堪えた。この台場の唯一の欠点は、井戸が一つより無く、飲料水に乏しいことであった。大亀を用意していたが、艦砲射撃によって破壊され、米あれど焚くことも出来ず、傷兵は傷口も洗えず困難をきたしていた。守備兵の戦死者は、栗原仙之助、津田丑五郎、長島五郎作、乙部剛之進であった。
この日新政府軍の田島圭蔵が台場に赴き、懸命に恭順を説いた。これに対し、松岡盤吉、相馬主計が五稜郭へ行き、取次をした。15日の昼になって、箱館奉行・永井尚志からの命を受け、新政府軍に降伏を申し出る。この事により、相馬主計が新撰組最後の隊長といわれる。弁天台場で降伏した人たちは、新撰組隊士他百人余りであった。さすがの新選組も、飢えには勝てなかったのである。
弁天台場は、明治29年に、函館港改良故事に伴い、壊されてしまった。なお当時使われていた石垣の石材は、現在も函館漁港の護岸に使用されている。そのため、護岸の石材をよく観察すると、弾痕の穴がみられる。
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箱館弁天崎御台場図 市立函館博物館特別展図録 「五稜郭築造と箱館戦争」から (平成26年度) |
| 箱館弁天崎御台場図 | |
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| 弁天砲台(明治15年11月頃のパノラマ写真から) | 弁天砲台(慶応年間~明治6年頃の写真) |
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| 明治6年~20年頃の撮影(パノラマ写真から) | 明治15年11月頃の撮影(パノラマ写真から) |
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| 御台場の石垣は、今も函館漁港の護岸に使われている | 御台場の石垣は、今も函館漁港の護岸に使われている |
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| かつての石垣には、箱館戦争時の弾痕のような跡が無数に見られる |
6.箱館病院
箱館病院は、後幕領時代の文久元年(1861)に設置された「函館医学所」が前身であったという。当時の山上町(現・弥生町)にあり、移転前の函館病院西寄りに位置していたという。
旧幕府軍が五稜郭に無血入城して程なく、榎本武揚は高松凌雲に対して、箱館病院を開設し、その頭取に就任するように要請した。凌雲は、榎本に病院の運営には一切口を出さないこと、全ての権限を自分に一任することを前提に引き受けたという。そして早速に「病院心得」を制定した。その内容は、病者への取扱いと看護人の心得であったという。そして戦傷者は敵味方を問わず治療するという、日本では初めての赤十字活動を取り入れた運営方針とした。これには当の患者同士の方が面食らっていたが、凌雲は、どちらにも毅然とした態度で接していたという。
病院は、五稜郭入城後すぐに建設を開始した。明治元(1868)年11月22日に着工し、同2年2月23日には2階建ての病棟が2棟完成した。しかし、すぐに手狭となり、3月の宮古湾海戦、4月の松前攻防による入院患者の増加により、高龍寺を分院として使用することとした。そして以後は、さらに戦況が激化したため重傷者を本院と分院に入れて、軽傷者は五稜郭に移したという。
令和元年に行われた市立函館博物館の特別展「箱館戦争終結一五〇展」では、高松凌雲が箱館戦争時に立てた病院2棟の場所を愛宕神社と弥生小学校の間近くであるらしいと突き止めている。その時の様子を高松凌雲は、自著に次のように記していたという。
「因て傷者も亦日々に多き加う。然るに、病院は甚狭隘にして、意の如く患を収容すること能はず。各所に分院を設くと雖ども不便尠からず。遂に意を決して二階建の病院二棟を新設す。明治元年十一月二十二日、大工助右衛門に命じて工を起こし、同二年二月二十三日に至りて落成す。直に分院にある病を一處に集合して、漸く病院の体裁を為すを得たり。」(「博物館展示パネル」より)と述べている。
5月11日の箱館市街総攻撃の日には、遊撃隊の人見勝太郎が本院に立ち寄り「患者を頼む」と言い置いて出掛けたという。また、同日10時頃には薩摩藩と久留米藩が乱入してきたが、凌雲の筋道の通った説得に納得し、病院玄関の上り門前に「薩州改」の札を掲げて、安全を保障したという。
同12日、薩摩藩から、入院中の会津藩遊撃隊隊長・諏訪常吉に、降伏勧告の仲介を依頼したが、しかし諏訪は重傷でその役目を引き受けられず、病院長の高松凌雲と小野権之丞医師に委ねた。
英国軍艦の医師クエンは、箱館病院の活躍を「少人数の医師で多くの患者をよく治療していた」と称賛していた。
『小野権之丞日誌』から「二年三月八日土方より手紙。四月二十日伊庭重傷。五月一日新撰組津田手負い。五月九日土方来る。五月十四日古屋死す。十六日諏訪死す。」名のある勇者が次々と世を去っていった。
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| 高松凌雲が建てたといわれる2階建ての2棟の「箱館病院」。 「箱館戦争図」に描かれた「箱館病院」と思われる建物 |
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| 明治2年4月頃の撮影と思われるパノラマ写真に載った「函館病院」と思われる建物 |
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| 令和元年の市立函館博物館の特別展「箱館戦争終結一五〇展」では、高松凌雲が箱館戦争時に立てた病院2棟の場所を愛宕神社と弥生小学校の間近くであるらしいと突き止めている。(「特別展の展示パネル」から) 場所は「元町公園」より南東方向の一角 この住宅地の裏側あたりか。 |
7.「傷心惨目」の碑
この碑は明治13年(1880)に、船見町高龍寺境内に旧会津藩出身者の有志によって建立されたものである。
明治2年5月11日。頭書の高龍寺は現在の弥生小学校の位置にあり、箱館病院の別院として使っていた。そこへ突如として、弘前藩・松前藩の兵士が乱入してきた。驚いた医師や患者十数人を、彼らは殺害し、あげくの果てに放火して立ち去ったのである。此の時重症者であった奥山八十八郎は、切腹して果てたという。さらに分院調役の木下晦蔵(かいぞう?)も殺害された。
碑の表面には以下のように書いてある。
「傷心惨目
撰宋岳飛真蹟李華古戦場文学勒石以弔焉
会津残同抱共建
明治十三年」
【解説】
高龍寺は、明治12年(1879年)に現在地に移転。翌13年に旧会津藩の有志が、この碑を建てて、斬殺された藩士を供養したものだと伝えられている。しかし、この日の戦いでの会津出身者はいないので、この「傷心惨目之碑」は、函館在住の会津関係者が戊辰戦争全体の終了から13回忌目の霊を弔うために建てたとする説もある。いずれにしても戊辰戦争で世を去った同藩の人々を弔う碑とし、旧藩士の心の拠り所であると共に、箱館戦争の事件簿でもあるのである。
碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作で「古戦場を弔う文」からとったものである。文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものである。
(了)
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| 函館の「国華山・高龍寺」 | 高竜寺の一角に建てられた「傷心惨目碑」 |
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| 荒井郁之助 | 榎本武揚 | 永井玄蕃 |
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| 土方歳三 | 松平太郎 | 中島三郎助 |
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| 榎本対馬道明 | 川村録四郎 | 人見勝太郎 |
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| 大鳥圭介 | 甲賀源吾 |












































