函館碧血会

20.箱館戦争に参加した碧い目のサムライたち

箱館戦争に参加した碧い目のサムライたち

(※)本文書は、「箱館戦争と碧血碑」(函館碧血会・木村裕俊、三和印刷、2018年)を参考にまとめたものです。

1.ブリュネの決意

明治元年(一八六八)から同二年(一八六九)の箱館戦争に、「碧い目のサムライたち」も参加していたことはご存じであろう。彼らは箱館戦争が始まる二年前に、フランス国から日本にやってきて、徳川幕府の幕臣たちに近代的な軍事教育を行い、西欧諸国に開国した徳川幕府の軍隊を近代的な軍制改革を備えた組織に変えることを目的にやってきた軍人たちであった。

フランスから来日した軍事顧問団は、総勢十九名であった。隊長はシャノワーヌ参謀大尉で、副隊長にジュール・ブリュネが当たった。ほかに士官四名と下士官十三名で構成されていた。軍事顧問団一行が日本に付いたのは、慶応二年(一八六六)十二月八日であった。横浜に到着後すぐに幕臣たちへの軍事訓練が始まり、丁度一年が過ぎようとした頃の、慶応三年十月に「大政奉還」が行われ、徳川幕府側と薩長連合の政治的な綱引きが続いていた。同年十二月九日に薩長連合を中心とした討幕派が朝廷内でクーデターを起こし「王政復古の大号令」を発して徳川幕府の廃絶を求めたのである。結局この動きが「戊辰戦争」への引き金となったのであった。

こうした動きによりフランスの軍事顧問団は、本国からの命令もあり、日本から退去することを決めたのであった。しかしこの時、副隊長のブリュネと下士官四人はそのまま日本に留まり、榎本ら旧幕府軍を支援することとしたのであった。そしてブリュネは、本国のナポレオン三世と隊長のシャノワーヌに、フランス軍籍を離脱する辞表を書いて提出したのであった。

ジュール・ブリュネ肖像ブリュネはなぜ榎本らの旧幕府軍を応援したのであろうか。エゾ地に行く前の榎本とブリュネの接点は、ほとんど見つかっていない。ただ、ブリュネは榎本がオランダに留学した新しいタイプの武士であることを知っていたし、榎本もまた幕府の古い軍事力を西洋の新しい教練によって劇的に生まれ変わった軍隊になると期待していたのだろうと思われる。おそらく二人の間には、古い組織を新しいものに変えていきたいという共通認識のようなものがあったのだろうと思われるのである。

榎本とブリュネが最初に出会った時、ブリュネは榎本の態度に感動した。慶応四年(一八六八)一月に「鳥羽伏見の戦い」が起ったが、幕府軍は簡単に敗北してしまった。これはどういうことか、榎本は開陽丸を降りて大坂城に戦況を聞きに向かったところ、入れ替わりに将軍慶喜が船長の榎本を置き去りにして開陽丸で江戸に帰ってしまったのである。この事態に榎本は大いに憤慨したが、すぐに気を取り直し誰もいなくなった大坂城を整理してから、富士山丸という艦船で江戸に帰った。このとき榎本は、同じように江戸に向かおうとしていたブリュネ一行と同じ戦艦で帰ってきたのであった。ブリュネはこの時、すべての行動を見ていたのである。純粋に戦力評価をして作戦を提示しようと大坂城に来た榎本と、誰にも打ち明けずにわずかな人数で逃げるように江戸に帰ってしまった将軍一行。そして機能しなくなった幕府の上層部だけが残り、組織がバラバラになった大坂城では、自主解散のように自然消滅して誰もいなくなった。榎本は大坂城に一人残って片付けを済ませてから、富士山丸で江戸に向かった。このときの榎本の態度には、何の外連味(けれんみ)も見せなかった。ブリュネが聞いていた日本の「武士道」の態度そのもののように感じられたのであった。

後にブリュネが榎本の申し出を引き受けようとした理由は、ナポレオン三世とシャノワーヌ隊長の辞表と手紙にも書かれていたが「旧幕府軍の中に自分が軍事教練した士官や下士官が大勢いて、今北に向かおうとしている彼らには自分が必要なのだという自負があった。またもう一つには薩長連合の後ろ楯にイギリスやアメリカがいて、これを見過ごすとフランスの国益に悪影響をきたす」との考えから、榎本軍に参加して日本での諜報活動を続けたいと希望していた。そしてこの手紙の内容が、後にフランス本国で軍事裁判にかけられたブリュネを救ったのであった。これは紛れもないブリュネの本心であるが、しかし他にもブリュネを揺さぶり日本に残ることを決心させたきっかけがあったのではないだろうか。榎本の体内から発せられる「武士道」という独特の気力に感銘し、自分もその中に参加したいという気持ちが大きくなっていったのではないだろうか。シャノワーヌ大尉への手紙にも「日本人の気高い精神に同調してしまった」のだ、と表明している。ブリュネが箱館戦争に参加することを決心したのは、日本の武士たちの「義」の心に感銘して、フランスの「士道」で応えようとした「碧い目のサムライ」の心意気だったのかもしれない。

ブリュネは当初、榎本軍に一人で参加するつもりでいた。しかしどうしてもブリュネと行動を共にしたいという下士官のカズヌーヴがいた。やむを得ず承知したのであるが、仙台でも三人の下士官、フォルタン・マルラン・ブッフィエが同行したいと願い出てきたて、五人になった。箱館に着いてからもうわさを聞いて訪ねる者があった。海軍を脱走してきたというニコールとコラッシュ、元海軍で民間人のクラトー、元陸軍のトリポー、商人のプラディエらであり、最終的に箱館でブリュネのもとに集まったフランス人は、本人も含め十名になった。

【ジュール・ブリュネ肖像】

ブリュネが開陽丸に乗り込んだ時のエピソードが面白い。この日イタリアの公使館で仮装舞踏会が行われていた。ブリュネとカズヌーヴ伍長がサムライに扮装して参加した。そして舞踏会後にそのままの格好で脱走し、榎本軍に合流したという。何とも締まりのない侍だったような気がする。

2.ブリュネの役割と作戦

 榎本軍は、品川沖から何度も新政府軍に交渉のアプローチをかけていた。「このままでいけば旧幕臣のほとんどすべてが職を失い、大問題になってしまう。そのため、旧幕臣で希望するものはエゾ地で開拓をし、北方での防備に着くことを許可出来ないか。」このことを何度も繰り返し要望してきた。江戸城開城後に品川沖から直接要望しているし、北に上る直前に勝海舟らに仲介を頼んで書簡を預け置いてきた。仙台でも新しくやってきた新政府の奥州総督府に出しているし、箱館に来てからも五稜郭の清水谷総督府や松前藩にも出して協力を呼び掛けている。何度も何度もあきらめずに、同じ内容の手紙を粘り強く出し続けていたのである。時には、箱館に立ち寄った外国艦船の艦長をつてに、新政府への要望を出し続けた。しかし、新政府側は、何度渡そうとしても、全く相手にしてこなかった。ブリュネは新政府軍の思惑として、榎本軍を何が何でも降伏させ、新政府側の力を示したいという考えがあるのだと感じていた。そしてその裏にはイギリスやアメリカの力が暗躍しているのではないかと考えていた。

 ブリュネは榎本からの要請を受けて、新政府軍が攻め込んできたときの、箱館での旧幕府軍の軍事態勢を検討することとした。具体的には、旧幕府軍の軍事組織をフランス式連隊に編成し直し、訓練を続けることが第一であり、その次に箱館その近郊の守備体制を固め、新政府軍のエゾ地攻撃に対処する作戦と防御施設の構築をすることであった。

 年が明けて明治二年(一八六九)になった。開陽丸が江差沖に沈んで残念な思いはあるが、勝負は今年の春だと思っていた。雪解けとともに箱館の対岸青森に、新政府軍の大軍が大挙押し寄せてくるだろう。今榎本軍はエゾ地に三千人の兵力がある。新政府軍が旧幕府軍に勝てるだけの兵力を集めようとすると、倍かそれ以上の兵力を用意することになるだろう。おそらくは八千か一万ぐらいの兵力にはなるだろうと思った。

 ブリュネは榎本に次のような提案を行っている。いま旧幕府軍、三千人の兵士のうち半分はすでに徳川幕府体制の時にフランス軍の軍事訓練を受けた伝習性たちである。残った半分の兵士たちも陸軍隊や遊撃隊などの旧幕府義勇兵であり、伝習性たちによって指導を受けている。つまり、直接・間接的にフランス軍の基礎は学んでいることになる。だから旧幕府軍には、次の段階である新しい軍隊組織を作り、フランス式の厳しい軍律を理解させなければならない、と訴えた。

 旧幕府軍の陸軍組織の三千人を、約八百人ずつの四つの連隊に分け、その連隊を「列士満(れじまん)」と名付けた。フランス語の「連隊」をもじったものといわれる。この「列士満」のそれぞれの連隊長に、日本人とフランス人の各一名を配置することとした。第一レジマンの連隊長には、フランス軍のフォルタンを連隊長司令官とし、大隊長に伝習士官隊の滝川充太郎と遊撃隊の伊庭八郎を指名した。第二レジマンには、伝習歩兵隊の本田幸七郎とマルランを連隊長司令官とし、同じ伝習歩兵隊の大川正二郎と一聯隊の松岡四郎次郎を大隊長に指名した。第三レジマンは、カズヌーヴを連隊長司令官とし、陸軍隊の春日左衛門と額兵隊の星淳太郎を大隊長に指名した。そして第四レジマンは、ブッフィエと古屋佐久左衛門を連隊長司令官とし、衝鋒隊の永井蠖伸斎(かくしんさい)と天野新太郎を大隊長にそれぞれ指名した。そしてこの連隊の総司令官は「陸軍奉行」の大鳥圭介であり、補佐が「同奉行並」の土方歳三となるのであった。

 以後、フランス人の連隊長司令官によって統制された「列士満」の隊員たちは、フランス軍事顧問団の元で毎日軍事訓練の調練をすることとなったのである。場所は、箱館から一里(約一キロメートル)ほど離れた亀田村の、五稜郭要塞で行っていた。

 ブリュネは旧幕府軍三千人の兵力で、エゾ地の守備範囲を固める必要があると考えていた。そのためには、道南の広域範囲にしっかりとした防衛陣地を作っておく必要があった。峠下台場、大沼・小沼間の台場、七重浜台場、鹿部台場、川汲台場などがそれに当たり、箱館近郊にも四稜郭と東照宮に権現台場を作った。

 蝦夷地に春が来て雪解けが終わるころ、戦闘が開始されるだろうと思っていた。新政府軍が上陸し、侵攻を強めるのは、江差、鷲ノ木、松前、室蘭、大沼、そして箱館などが考えられる。特に箱館は、五稜郭要塞と並んで重要な拠点となっている。そのため、箱館には二百人の兵力を常駐させておく必要がある。また、周辺の要塞や駐屯地にも兵力を配置し、それに沿岸地帯や山中の峡谷にも目を配らなければならなかった。こうしたことを考えると、配置する兵力だけで二千人以上になってしまうのである。

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【写真】旧幕府軍に参加したフランス軍事顧問団と撮影
(函館中央図書館蔵)   
後列左から、カズヌーヴ、マルラン、福島時之介、ホルタン
前列左から、細谷安太郎、ブリュネ、松平太郎、田島金太郎

3.ブリュネと日本の将校

 旧幕府軍には優秀の人物が多いとブリュネは考えていた。中でも「ケイスケ・オートリ」(大鳥圭介)は素晴らしい。彼は頑固だがとても優秀だと思っていた。彼は陸軍のジェネラル(総司令官)であり、日本での職名は「陸軍奉行」である。そしてそれを補佐するのが「トシゾー・ヒジカタ」であった。彼は「陸軍奉行並」という職名であった。かつて京都で、徳川幕府新選組の副長を務め、薩長軍など討幕派から恐れられた人物であった。このほかにもブリュネの心に残る人物はいた。中でも、海軍の荒井郁之助であった。「海軍奉行」であった荒井は、オランダで軍事教育を受け、高等な海戦戦術を身に着けていた榎本の戦術も理解出来ていたという。旧幕府軍には、このように優秀な人材がそろっている。今回の作戦が成功すれば、たとえ数倍の敵兵が来ても、持ち応えることが出来るだろうと考えていた。仮に砲術戦が始まっても、千代ヶ岡陣屋の中島三郎助のような砲術に詳しい人物もおり、頼もしく感じていた。

4.新政府軍の上陸と反撃

 明治二年(一八六九)四月九日、新政府軍は乙部沖にやってきて、戦闘が開始された。旧幕府軍は上陸を阻止しようとするが、昨年の沈没事故で開陽丸を失い、制海権を大きく失った旧幕府軍は、最初から不利な戦いを強いられていた。新政府軍は箱館に向けて四つのルートを進みながら、制圧されていた地域を奪還していった。第一のルートは、江差から松前方面に向かう海岸線の「松前口」であった。第二のルートは、上の国から木古内に向かう山越えの「木古内口」である。第三のルートは、乙部から厚沢部・鶉を経由して大野に向かう「二股口」である。そして第四のルートは、乙部から内浦湾側の落部を目指す「安野呂口」であった。

 旧幕府軍は、どのルートでも多勢に無勢で、思うような戦いが出来ず、不利な戦いを強いられていた。唯一、土方歳三の指揮下にあった三百人は、大野「二股口」で新政府軍を苦しめていたが、「木古内口」が破られたことから土方隊は「挟み撃ち」になる危険性が生じたため、やむを得ず五稜郭に撤退したのであった。

5.矢不来の戦いとブリュネの帰国

 四月二十九日に至って、木古内口で敗北した旧幕府軍は、矢不来まで撤退して体勢を立て直そうとした。しかし、新政府軍は矢不来の陣地をめがけて、海と陸から攻め込んできた。旧幕府軍は土塁を築き直して応戦したが、防御しきれず、敗走してしまった。

 この矢不来の戦いを境に、敗戦を確信したフランス軍参謀のブリュネは、箱館港に停泊していた自国の軍艦に書簡を送り、助けを求めたのである。フランス軍人のカズヌーヴとブラジーエの二人が負傷し、かなり危険な状態に陥っていたのである。

 フランス軍艦の艦長から許可をとったブリュネは、これ以上榎本の足手まといになることを避け、榎本に日本を去る決意を告げた。榎本もまた、ブリュネにこれまでの協力に感謝し、これ以降の行動は全てブリュネの判断に任せたのであった。

 ブリュネはフランス軍の軍艦で箱館を去った。そしてほどなく横浜からフランス本国に強制送還されている。本国に連れ戻されたブリュネは軍事裁判にかけられたのだが、彼がフランス軍籍を離脱する際の日本での置手紙が新聞に掲載されたことで、世論の支持が一気に高まり、結果的にブリュネは元の砲兵隊に復帰することが出来たのであった。

 その後のブリュネについて少し話しておこう。フランス陸軍に復帰したブリュネは、その後普仏戦争に参加して一時は捕虜になるなどの経験もしたが、陸軍大臣にまで上り詰めたシャノワーヌの元で、陸軍参謀総長となって活躍したという。また、明治二十九年(一八九五)に日本に大きな貢献をもたらしたとして、シャノワーヌとブリュネにそれぞれ日本国の勲一等と勲二等が授与されている。シャノワーヌとブリュネは、フランスで日本陸軍の留学生の世話をずっと続けていたのだという。こうした活動に応えたものであろうが、これは外国人に授与される勲章としては、最高位のものであった。当時明治政府の閣僚となっていた榎本武揚の上奏があったことも大きな影響を与えたようである。榎本にすれば、ブリュネも含め、フランス国への恩返しであったのかもしれない。

 今もパリ郊外のブリュネの末裔が住む家宅には、日本の大君(将軍)から拝領した日本刀が現存しているという。

(了)