23. 榎本武揚の言い分
R.03.08.31
榎本武揚の言い分
(令和 2 年度・第 60 回函館市民文芸、ノンフィクション部門入選作品)
函館碧血会 木村 裕俊
一、開陽丸と「戊辰戦争」の勃発
榎本は今、オランダを出発して大西洋上にいた。大海原に出た途端、いきなり暴風雨に遭い、もう二週間以上も続いている。しかし「開陽丸」は、大波に身を任せるように揺られながらも、平然と進むことが出来ていた。徳川幕府がオランダに発注した最新鋭の軍艦であった。榎本は、この船の設計にも深く加わっており、その造船行程のすべてを確認して完成させた軍艦であった。たとえ嵐の中の航行であっても、揺れているというだけで、少しも不安はなかった。「素晴らしい船だ、こんな船は二度と作れないのではないか。これで徳川幕府は安泰だ。…」と、独り言をつぶやきながら満足していた。
開陽丸は、慶応二年(一八六六)七月に竣工し、十月に日本側に引き渡された。蒸気機関を搭載した木造帆船で、総排水量が二五九〇トン、長さ七三メートル、幅十三メートル、高さ四十五メートルの三本マストであった。当時としては最新鋭であり、装備された砲門は榎本が特に設計を変更してまでこだわった施条砲を備えた、当時の世界でも群を抜く最強軍艦であった。
榎本がオランダに向かったのは、文久二年(一八六三)であった。幕府がオランダに蒸気機関の軍艦を発注するにあたり、榎本を含め七名の若い幕臣たちを留学させたのであった。榎本らはオランダのハーグに下宿し、船舶運用術、砲術、蒸気機関学、国際法などを学んだ。また、オランダ政府の計らいで、観戦武官としてデンマークとブロイセン王国の戦況を体験している。そして、関係国の軍隊の戦線を見学し、実地に近代戦争の戦況を体験していた。この事は榎本にとって、後の「箱館戦争」で大いに役立ったことであろう。
半年の航海を終えて榎本は、慶応三年(一八六七)三月に横浜港に到着した。四年ぶりの日本であった。幕府の軍監奉行・勝海舟らに迎えられ、久々の再会を喜び合った。榎本は、勝らの推挙により、軍艦頭並に登用された。そして榎本がまず行ったのは、オランダ海軍に習って軍服を制定し、厳しい軍律を定めることから始めたのであった。
慶応三年は、十月に徳川幕府が「大政を奉還」して、新しい政治体制を作ろうとした年であった。十四日に将軍慶喜は、朝廷に政権を返上した。これにより、徳川宗家も含めた代表諸侯による新しい「公儀新政体」を発足させようと考えていたのである。しかし薩長連合をはじめ討幕派は、あくまでも徳川幕府を完全に廃絶しよう画策していた。
「大政奉還」後、関係代表藩の話し合いが行われないまま十二月に入り、討幕派が遂に、朝廷内でクーデターを起こし「王政復古の大号令」を発して新政府を樹立してしまった。クーデターにより成立した新政府は、まだ勢力の衰えない幕府軍を挑発して、無理やり戦闘に引き込み徹底的に潰す作戦に出たのであった。
慶応四年(一八六八)一月三日には、ついに薩長連合の挑発に乗せられ「鳥羽伏見の戦い」が始まった。一月六日に幕府軍が敗れると、将軍慶喜は会津藩主ら数名だけを連れて大坂城を抜け出し、江戸城に帰ってしまったのである。
この日、榎本は幕府軍が「鳥羽伏見の戦い」で敗れたことを知り、将軍慶喜に謁見して今後の戦い方について意見を述べようと船を降り、幕府軍本陣の大坂城へと向かった。ところが、その将軍慶喜とは行き違いとなり、慶喜は船長のいない開陽丸を無理に出航させ、船長を置き去りにして江戸に向かってしまった。総大将が、大坂城にいる将兵たちを見捨てて江戸に帰ったのは前代未聞の出来事であった。
榎本は大いに憤慨した。将兵を見捨て、総大将だけが隠れて逃げるなどという戦いはこれまで聞いたことがない。たとえ敗れても、一矢報いるのが武士の戦いである。戦いはまだ始まったばかりではないか。徳川幕府には数えきれないほどの幕臣と家来がおり、その者たちをどうしようとしているのか。榎本の心にはやり切れない気持ちが暗雲のように覆いかぶさった。しかし、将軍慶喜を嘆いてももうどうしようもなかった。主を失い、大坂城に残された将兵たちは自主解散のようになり、潮が引くように誰もいなくなった。
榎本は止むを得ず、大坂城に残されていた書類等を整理した。この時、城内に金十八万両が残されていることを発見した。これを持ち出し、富士山丸に積み込み江戸に向かった。この金額は軍資金として「箱館戦争」で使われた。この時、同じ富士山丸にフランスの軍事顧問団のブリュネ一行も同乗していた。ブリュネ自身も、榎本の嘆きと大坂での最後の始末の様子を見て、同情したのではないだろうか。そのことが、後に榎本と行動を共にして箱館に向かう決意をさせたのかもしれない。
二、 榎本の要求
「鳥羽伏見の戦い」で勝利した新政府軍には、最早大きな敵はなく東海道を難無く進軍して、三月には江戸城を攻撃できる所にまで迫っていた。将軍慶喜はすでに江戸城を離れ、新政府に対して恭順の姿勢を示している。幕府は勝海舟に全権を委任して、新政府軍の西郷隆盛と降伏条件の交渉を行っていた。交渉は以下の条件で決した。
(主旨)
一、徳川慶喜は隠居の上、水戸藩にて謹慎すること。徳川家は田安家(御三卿家)から家達(いえさと)が後継する。その上で、徳川家は新たに静岡駿府藩を七十万国で移封する。
一、江戸城は、尾張徳川家預かりとする。
一、旧幕府軍が所有していた武器・軍艦は、全て新政府軍に引き渡す。
これで、江戸城の攻撃は中止されたのである。
ちなみに徳川家が、静岡駿府藩として七十万石の大名になるということは、これまでの徳川宗家四百万石と徳川家旗本家臣団三百万石の、合わせて七百万石がすべて新政府に召し上げられ、その上で十分の一に当たる石高の大名になったということである。これでは、徳川八万旗といわれる旗本家臣団と、その家来・使用人の生活は成り立たない。
また、旧幕府軍は「鳥羽伏見の戦い」で新政府軍から、朝廷に反逆する「賊軍」勢力であると決め付けられた。幕府側は「大政奉還」をしており、その上で天皇を中心とした政治機構に賛成し、「公儀新政体」への参加も表明していた。断じて朝廷の反逆勢力ではないのである。武士として生きてきた榎本にとって、この「誇り」は自らの曲げられない人生観であり、捨て置くわけにはいかないのである。自らも徳川家臣団の一員である榎本としては、この二点は譲ることのできない問題だったのである。
慶応四年(一八六八)四月に、江戸城は無血開城された。武器も軍艦もすべて新政府側に引き渡されることになっていた。しかし榎本は、これを船上で断固として拒否していたのであった。榎本の指揮下にあった幕府艦隊は、品川沖で海上から新政府軍に無言の圧力をかけ続けていた。新政府軍も無為に時を過ごしたわけではないが、新政府の貧弱な海軍力では、榎本艦隊を抑えられなかったのである。
榎本武揚は江戸湾品川沖でじっと待っていた。新政府側からの返事を待ち続ける中、榎本は新政府に対し「徳川幕府への二百数十年の恩顧を忘れた一部の強藩の措置」として糾弾し、徳川幕府を「朝廷に背いた賊軍」と決めつけたことの撤回を求めた。また、「生活を奪われた徳川家臣団をエゾ地に派遣し、開拓と北方防備の役割を担わせる」ことを強く要求していた。
その後も機会を見つけては再三にわたり新政府側に要望書を提出し、根気強く回答を待っていたが、新政府側からは一切の反応がなく、完全に無視されていた。
八月十九日、榎本はついに開陽丸以下八隻の艦隊を率いて品川を出発し、北へ向かった。江戸を離れるにあたり、勝海舟、山岡鉄太郎、関口良輔の三人に宛てた『書状』を書き、同時に新政府に宛てた『告文』をこの三人に託した。
これらの書状には、榎本のエゾ地に向かう強い決意と心意気が示されており、新政府軍に対して「物事の道理」を説いているようにも感じられる。以下に、勝ら三名に宛てた『書状』と新政府側に託した『告文』の主旨を掲載する。
『榎本釜次郎書状』
寸書拝啓、秋冷の候。
皆様には、益々ご壮健に忙しくされていることと存じ、実に喜びに堪えません。
申し上げますと、私たち一同はこの度、この地を退去することに致しました。
私たちの本心・情実は別紙の通りでございます。皆様方でご回覧の上、出来れば新政府の鎮将府へお届け下さるようお願い致します。
もっとも、朝廷ならびに軍防局へはそれぞれ手づるを以て差し出したのですが、届いたのかどうかも分かりません。
この事で貴方様方を煩わせることとなりますが、宜しくお願い致します。
私たちの今回のこの行動は、決して良い方法とはいえませんが、これをもって、長く天皇を中心とした政体が一つにまとまる基礎になれば、と思っています。
目下、今日の情勢では言葉をもって行うより、行動による方法しかないと決心致しまして、この挙に及んだ次第です。それ以外の他意は御座いません。
天がもし私たちを見捨てなければ、めでたく再びお会いすることが出来るでしょうが、叶わぬ時には、すなわち命はありません。
私たちの結果がうまく熟するように願っています。
おそれながら私は、新政府の役人方によくご議論いただき、物事の順序を宜しく見極めて欲しいのです。
生前の一語として、祈っております。
八月十九日 榎本釜次郎より
勝安房守様、山岡鉄太郎様、関口良輔様 各位
『徳川家臣大挙告文』
天皇を中心とした新しい日本の政体は、未来の幸福に満ち溢れている。我等もまたそうした将来を希望していた所であった。
しかしながら、今日までの新政府による政体の在り方は、「公明正大」であるというが、その実態は必ずしもそうはなっていない。
新政府軍が京から江戸に東下するや、わが徳川幕府の将軍を陥れるのに「朝敵」の汚名を以て充てた。そして敗戦後の処置は甚だしく、遂にはその領地と蔵入りのものを全て押収してしまい、祖先からの地を棄てさせ、その墳墓を祀る事さえ出来なくしてしまった。
そして旧幕臣たちの領地も取り上げて官有としてしまい、家臣たちは家を保つことさえ出来なくなったのである。これも又甚だしい行為ではないか。
これは一つに、(薩長をはじめとする)強藩の私意から出た政策によるもので、(天皇を中心にした)真の王政とはとても言えるものではない。我等は、泣いてこれを朝廷の役人に訴え出たが、組織が梗塞しその実情が上に伝えられなかった。
故に我等はこの地を去り、長く真に朝廷の政治を助け、和解の一助となるようにその基礎を築きたいと考えたのである。
全国の総ての士民平民を問わず、道義を守り、これまで数百年続いた武士の時代の怠惰した悪弊を洗い清め、人々の意気を鼓舞して、日本国が世界全体と肩を並べて堂々と歩むことが出来るようにしたい、我等の願いはただこの一挙にある。
こうした政策の実行は、あえて我等が自らに任じて行うこととする。朝廷におわす君子も、水辺林下に遁れた隠士たちも、いやしくも世の中の道理が分かり志ある者は、どうか我等の主張を聞いて欲しい。(原文は漢文)
榎本武揚の本当の目的は、新政府の承諾を得た上で旧幕臣の自分たちが「未開のエゾ地の開拓」を行い、南下政策を進めるロシアの圧力から「北門の厳重な守りを固める」ことであった。しかしこの嘆願は、新政府側に何度も繰り返し打診したが、全く無視されたままで返事はなかった。そのため榎本は、新政府の許可を待たず『告文』の「こうした政策の実行は、敢えて我等が自らに任じて行う」として北へ向かうこととしたのであった。
八月に入って榎本は、いよいよ出港準備に取り掛かっていた。勝海舟からは、くれぐれも軽挙妄動は慎むように言われていた。海舟の前ではあいまいな表情をしていたが、心の中ではもはや動かせないものになっていた。八月十五日に、徳川宗家を継いだ当時六歳の田安亀之助(後の徳川家達・いえさと)は、静岡駿河藩七十万石の新藩主となって、駿府城に入城した。榎本はこれを確認した後の、十九日深夜に艦隊を品川沖から静かに出港させたのであった。
榎本は出来たばかりの静岡駿河藩、徳川宗家には自分たちの行動で迷惑はかけたくなかった。そのためこの度の行動は、新藩主が駿河城に入城した後に起こそうと決めていたのである。これは榎本が自軍を「旧幕府脱走軍」と呼んだことがあったが、これも自分たちは今後徳川宗家と全く関係ないということを、あえてアピールしたのだといわれている。
榎本艦隊は開陽丸を旗艦として、八艘で編隊を組んでいた。品川沖を出港した榎本艦隊は、その翌日から台風崩れの暴風雨が続き、途中で八艘の編隊がバラバラになってしまい、二艘の船を見失ってしまった。ほかの六艘は何とか仙台沖に集結することが出来たので、直ちに仙台で修理することとした。
九月に入り、榎本は仙台で「奥羽越列藩同盟」の会議に出席し、諸藩に奮起を促したが、大勢としては降伏に傾いていた。この時点ではまだ会津での戦闘は続いていたが、その情勢は既に目に見えていた。そのためか戦線から撤退する兵士も多く、榎本艦隊に望みを託そうとする将兵らが続々と集まって来た。榎本艦隊は結局の所、桑名藩主、備中松山藩主や大鳥圭介、土方歳三らと共に、伝習隊・衝鋒隊・額兵隊など約千人を新たに収容することとした。これで榎本艦隊の総勢はおよそ三千人となったのであった。
この時期榎本は、新政府軍の仙台追討総督四条隆謌(たかうた)が仙台に入るため、平潟口まで来ていることを知り、同総督に宛てて旧幕臣を救済するための「エゾ地開拓を目指す嘆願書」を提出している。しかしその後に新政府軍は、仙台に迫って来たため、余計な戦いを避けるために、十月十二日には仙台を離れエゾ地に向けて北上したのであった。
榎本はこのように、これまでも、これからも、新政府側と接触する機会があるごとに、何度も旧幕臣たちの「エゾ地開拓」と賊軍と決めつけた「名誉回復」についての嘆願書を繰り返し提出していた。また、新政府軍との戦闘についても、最初の戦いを自軍の方から仕掛けることはしなかった。すべて新政府軍側から挑発された戦いであった。
三、 エゾ地での戦いと主張
エゾ地に着いた榎本艦隊は、箱館港に直接入港することを避けた。箱館港には弁天台場などの防備施設があり、新政府軍がこれを守備・管理していた。ここで一戦交えると、港内の外国船などにも危険が及び、国際協定上問題が大きい。そのため榎本は危険を避けて安全な場所に上陸することとした。上陸さえしてしまえば、兵力的には榎本軍の方が圧倒的に多かったので、新政府軍を難なく撃破できると考えていた。そうした配慮から、十月二十一日に箱館から四十五キロメートルほど北にある鷲ノ木村(現・森町)に上陸したのである。
榎本武揚はここでも、新政府箱館府知事・清水谷公考(きんなる)にまず「嘆願書」を提出し、新政府側の理解を得ようとした。その内容は「自分たち旧幕府軍は、エゾ地で開拓と北方警備を行い新政府に協力したい。ついては、自分たちのエゾ地への入植を許可して欲しい。また、中央政府にもこのことを斡旋して欲しい。」というものであった。榎本はこの「嘆願書」を人見勝太郎ほか三十名の先遣隊に預けて清水谷府知事への使者として先行させた。先遣隊は、無用な戦いを避けて交渉の下準備が出来る程度の人数にした。
残る約三千人の本隊は上陸後部隊を二手に分けて、一隊は現在の国道五号線を箱館方面に南下し峠下村・七重村(現・七飯町)から箱館に向かう大鳥圭介の部隊と、もう一隊は噴火湾沿いの鹿部・川汲を経由して湯ノ川から箱館を目指す土方歳三の部隊が続いた。
榎本から「嘆願書」を託された人見先遣隊は、十月二十二日に峠下村まで来た時に、不意に新政府軍から奇襲攻撃を受けた。これが箱館戦争の始まりであった。戦いは新政府軍の拙攻もあり、三十人の奮闘で何とか持ちこたえて二十四日に後続の大鳥隊と合流し、箱館府軍を退けることが出来た。また川汲峠(現・函館市)に差しかかった土方隊も、箱館府軍の攻撃を受けたがこれも敗走させている。旧幕府軍は、東北戦線で実戦に慣れていたためか、新政府軍をほとんど問題にしなかった。峠下村の戦線は、大野村(現・北斗市)、七重村(現・七飯町)に拡大していったが、いずれも箱館府軍が敗戦した。この報告に清水谷箱館府知事は、たまらず五稜郭を放棄して青森に撤退したのであった。
榎本隊が五稜郭に入城したのは、十月二十八日であった。エゾ地に入り、五日目で箱館の街を占拠し、八日目で五稜郭に入城している。開陽丸をはじめとする榎本艦隊も、箱館港に入港した。しかし、当初の目標としていた箱館府知事に「嘆願書」を提出し、エゾ地での処遇を交渉しようと考えていた目論見は、実現できなかった。
榎本は、松前藩の説得にもすぐに取りかかった。松前藩はほんの二年ほど前まで、第十二代藩主の崇広(たかひろ)が徳川幕府の老中職を勤め、幕府の要を担っていた藩である。三ヶ月ほど前まで「奥羽越列藩同盟」にも参加していた藩である。従って、榎本武揚のみならず旧幕府軍幹部のほとんどは「今は新政府側に就いているが、旧幕府軍側の立場を理解しているもの」と確信していた。しかし実態は、藩の勢力は守旧派と尊王攘夷を主張する改革派の二派に分かれて激しい勢力争いが続いていた。本年七月に藩内でクーデターが起こり改革派の「正義隊」が実権を握り、藩の上層部を改革派で固めてしまったのである。
榎本は松前藩に対しても、「旧幕府軍がエゾ地に来たのは、エゾ地の開拓と北方警備のためであり、松前藩の理解と協力を要望する」として、松前藩と和を図り交渉を求める使者を送った。しかし改革派で固めた松前藩には、榎本のこの思いは届かなかった。松前藩は、使者を殺し、断固戦うことを旧幕府軍に宣言したのである。そのため旧幕府軍は十一月五日に至って、土方歳三を司令官とした七百人の軍隊を編成して松前城下に出陣させた。
松前城下には、わずかな兵しか残っていなかった。江戸屋敷や、東北梁川飛び地の管理、厚沢部の新城、箱館府への出向などに割かれ、松前城で戦える兵員は四・五百人足らずだった。敗戦は時間の問題で、松前藩の兵たちは城下に火を放ち江差方面から館城を目指して敗走した。
十一月十日、館城への攻撃には松岡四郎次郎が向かった。五稜郭から江差街道を経由して、厚沢部に入った松岡隊は約五百の兵を率いて館城へと向かった。館城は未完の城で、城を守るための施設が機能していなかった。また、松岡隊の到着が予想していたよりずっと早く、同月十四日には落城してしまった。松前藩主徳広一行は、熊石から船で津軽方面に逃げ渡って行った。しかし病弱であった徳広は、弘前薬王院で遂に逝去してしまった。
旧幕府軍に拿捕され、投降した松前藩士はおよそ四百人であった。旧幕府軍と松前藩との交渉で、松前藩士たちの措置が決められた。この旧幕府軍の松前藩に示した行動内容は、松前藩士にとってはほとんど拘束力を伴わない、いわば「寛大な措置」であった。このような措置もいわば、榎本をはじめ旧幕府軍幹部たちの、松前藩に対する思い入れが大きかったことを示すものだったのかもしれない。旧幕府軍と松前藩の「覚書」の内容(主旨)を以下に示す。
一、藩主徳広の所に行きたい者は、渡海して青森に行ってもよい。但し武器は置いていくこと。
二、帰農・帰商を願う者は、庶民とする。ただし農を願うもの、商を願うものはそれぞれ、その村や街の支配の許可を得ること。
三、旧幕府軍に加わりたいと思う者は帯刀を許す。食料を与え、待遇は我兵と同じにする。
という内容であった。藩士たちは、やはり藩主の後を慕って渡海するものが圧倒的に多かったという。但し松前藩士は、翌年の「己巳(きし)の役」では官軍の先鋒部隊となり、かなり凄惨な行為を繰り返していた。「恩をあだで返した」形であった。
明治元年の松前藩との戦いの最中、榎本にとってショッキングな事態が発生した。無敵艦船といわれた開陽丸が、江差沖で嵐に遭い座礁・沈没してしまったのである。開陽丸の軍備力は新政府軍の海軍力をはるかに凌ぐ実力であり、それが榎本の心理的な大きな力にもなっていた。
十一月十五日、榎本は江差攻略の支援に開陽丸を参加させたのであった。江差攻略には、何も開陽丸ほどの戦艦が参加しなくてもよかったのであるが、内外に開陽丸の威力を見せつけたかったのであった。ただ油断したのは、江差沖の地形を調査しないまま上陸したことと、この季節江差地方に吹く強い西風「タバ風」を軽く見ていたことだったのではないか。榎本軍が開陽丸を失ったことで、エゾ地沿岸と津軽海峡の制海権を維持出来なくなり、翌年の戦いで新政府軍のエゾ地上陸を簡単に許し、戦局に大きな影響を与えた。
話を戻して、松前軍が榎本軍に降伏したのは、十一月二十二日のことであった。一般にこの日をもって榎本軍はエゾ地を平定したことになっている。そして、これをもって「エゾ共和国」の成立とか、「箱館政権」樹立などといわれる。しかし当の榎本は「新政権などは考えていない。エゾ地は日本国天皇の領地であり、我々は天皇の臣民である。」と答えていたという。ただ、諸外国との外交交渉などには「エゾ共和国」という曖昧な定義を利用して有利な交渉を展開していたようである。
また、日本で初めてという「入れ札選挙」の実施も新政権の代名詞になっているが、これも榎本軍の中で真のリーダーを決め、グループの中で士官以上の役職を決める参考にするための選挙であったといわれている。榎本軍の中には、元藩主や元幕府老中などの大名格の人たちも参加しており、上下関係が複雑に絡み合っていた。組織も海軍と陸軍の派閥があり、その中にも小さな部隊ごとの派閥もあり、全体にまとまりに欠ける集団であった。そこで行ったのが西洋の選挙をまねた「入れ札選挙」だったのである。自分たちの組織の矛盾を解決するための方法であった。国の代表を決める選挙であれば国民となるべき住民も選挙に参加しなければ、有効な手段とはいえないだろう。
榎本に新国家樹立の気持ちが無かったことは、十二月に入ってからも明治新政府に対して再び「エゾ地開拓を求める」嘆願書をイギリスとフランスの艦長に託していたことでもわかる。ただこの嘆願書は、両国とも艦長から公使に託され、公使から新政府の役人に渡された。これを見た新政府の岩倉具視は、ほとんど時間を置かずに、すぐに「却下」したという。岩倉には、榎本の立案した政策など検討にも価しないものだったのであろう。
この時期、榎本の気持ちが読み取れるような書簡がある。十月二十六日の日付のあるもので、箱館府との戦線で勝利して五稜郭に入り、松前藩攻略直前の時期のものである。宛先は、イギリスとフランスの公使である。その主旨を以下に示す。
我輩、今度の挙動は見込みの通りとなった。それは官軍がこの戦いの中で、見苦しくも自分の持場を打ち棄てて、我等に何の異議も唱えずにその地を明け渡してしまったからである。
あなた方にもすでにご推察出来ていると思うが、官軍は我等を法律も知らない「海賊」だと思っているようだが、我等は海賊にあらず。その証拠を官軍に見せたき故、エゾ地を平定することとしたのである。そして、我輩より官軍に書簡を送って、官軍のそれぞれの持ち場を持った者がそのまま残ることがあれば、我方としてもその者たちを守ることについて、掛け声だけで終わらないように申し遣わしたが、彼らはこれを無視し、恥を忘れて逃げ去ってしまった。
依って我方の手により、止むを得ず奉行所を預ることとした。我等から相当の役人を申し付け、諸税・海運の業務を申し受けることとした。取り集めた諸税は、我方から後日、江戸表に差送るよう申し上げる。
我等から今後、新しい政(まつりごと)を行うことを知らしめるため、近郷・近在の名主たちに集まってもらったが、皆我輩の旧来からの知り合い人であり、心中もよく存じ上げた人たちばかりである。
故に、日本人の取締りの向きにも、外国人に対しての取扱いについても、我等がここにあるときには何の不都合もない。
我輩は松前藩とは、争論致したくないと願っている。彼らから手出ししないうちにこちらから発砲するようなことはない。また、諸道を固め敵兵を防ぎ、当所を守護することは当然のことであるが、それ以外でもやむを得ない場合には当然兵力を用いる。
我輩には今、自分を守るだけの力は十分にある。これからも何卒、日本人の手により、日本を支配したいと望んでいる。どうか外国より手出しのないように祈っている。
とある。最初は新政府軍の戦い方に対する批評をし、次いで旧幕府軍を「賊軍」と決めつけたことへの批判と、どちらがそう見えるのかと切り返している。新政府側が五稜郭とその業務を放棄するのであれば、榎本軍がこれを行うとし、運上金が集まったら江戸表に送ってやると表明している。次に自分たちの政治・政策は、地域住民に支持されていることを強調している。そして今後については、松前藩との戦いは出来れば避けたいが、やむを得なければ戦うという態度である。最後に、書簡相手のイギリス、フランスに対して、榎本軍には自分たちを守る力は十分あるので、何卒外国からの干渉をしないで見守って頂きたい、と要望して終わっている。
四、 「碧血碑」と榎本の鎮魂
榎本軍がエゾ地を平定して、自らの信念に基づいて政策を実施した期間は、余りにも短かった。年が明けて明治二年(一八六九)、エゾ地の雪も解け始めた四月に入って、新政府軍は乙部に上陸し攻撃を開始して来た。開陽丸を失い制海権を無くした旧幕府軍は、簡単に上陸を許し、軍艦で何度も波状的に上陸を繰り返す新政府軍を阻止できなかった。この時エゾ地に上陸した新政府軍は八千人といわれ、旧幕府軍三千人を圧倒的に超える勢力であった。旧幕府軍の主要施設を次々と攻め、江差、松前、福島、木古内などに兵を進め、新政府軍の攻撃が始まって一月ほどで、あっという間に旧幕府軍は箱館と五稜郭を中心とする地域に追い詰められてしまった。
新政府軍は五月十一日を「箱館地区総攻撃の日」と定めて箱館戦を開始し、市街地で激しい戦闘が繰り広げられました。しかし、これらの戦闘も時間の問題であり、市内の守備施設は次第に制圧されつつありました。五月十六日には、千代ヶ岱陣屋に立て籠もっていた中島三郎助父子の壮絶な戦いが最後の戦闘となりました。榎本はこの時、中島父子に五稜郭に集まるよう命令しましたが、死を覚悟していた中島父子はこれを受け入れなかったと伝えられています。
すべてが終ったのであった。降伏の前夜、新政府軍総督の黒田清隆から差し入れがあり、五稜郭では最後の宴が開かれていた。榎本はこの時、自室に籠っていた。死を覚悟していたのである。床に正座して軍服を開き、静かに脇差を抜いた。その時、背後に何か気配のようなものを感じたのであった。偶然通りかかった秘書役の大塚霍之丞(かくのじょう)であった。次の瞬間、大塚は大声を出して飛び込み、素手で脇差をつかんで離さなかった。この騒ぎで人が集まり、榎本の体から力が抜けてしまった。大塚の手から鮮血が溢れ、右手の指が切れてしまっていた。この時初めて榎本は、降伏することを決断したのだという。
榎本には死ぬことも許されなかったのである。これまでも青年の頃から、徳川幕府の中で幹部候補生として教育され、責任感を背負わされてきた。それを一身に担って、部下を思い、国家を憂えてきた。オランダから青雲の志を持って帰国すると、祖国は革命の最中にあった。新政府は薩長土肥の田舎侍と、政治とはほとんど無縁で無智な公家たちの寄り合い所帯で、外交は拙劣で居留地にいる外国人を納得させる政策は全くなされなかった。
平和裡の内にオールジャパン体制の政治組織を作ろうと「大政を奉還」したはずの徳川幕府は、何故か「賊軍」の汚名を着せられてしまったのである。明日からの生活に困る家臣団の面倒は、誰も見向きもしてくれない。そのため、自らエゾ地に渡り「開拓と防備」の任を目指したのであった。そして国際港箱館において、欧米諸国との交渉も自分が行なおうと決心したのであったが、情勢は許さなかったのである。
榎本武揚の生き方は、余りにも純粋であり、結果として無謀であったのかもしれない。榎本は品川沖を出てから、常に自分と共にある兵士たちの心情を考えていた。彼らもまた北の箱館で、自分と同じような「青雲の志」を持っていたと信じて生きて来たのであった。
戦いが終って榎本以下七名の幹部たちは、東京辰の口の軍務糺問所の牢獄に収監された。収監中、敵将の黒田清隆が榎本の才能を見抜き、助命嘆願に奔走していたという。その甲斐あってか、明治五年(一八七二)に榎本らは特命を以て釈放された。
そして同年には新政府から「開拓使に出仕」するようにとの辞令を受け、新政府の一員として働くよう要請され、これを受けた。明治政府内での榎本は、幕臣出身者の大物として活躍し、最終的には、政府内では逓信大臣や農商務大臣も歴任した。政府の内外でもその出世をねたみ、「二主に仕える」などと非難する声もあったが、榎本と仕事を対等に張り合える者は誰もいなかった。
明治八年(一八七五)、箱館戦争が終って七回忌を迎える時に、函館・谷地頭の丘に榎本や大鳥をはじめ、後年まで生き残った人たちと協力して「碧血碑」を建てた。開陽丸で品川沖を出港してから、奥羽・エゾ地で戦死した旧幕臣とその同志のために建てた「慰霊碑」であった。この碑に眠る英霊の数は榎本が整理した『戦死者過去帳』によると、八一六名にも上る。碧血碑の裏面の石板には、以下のように文字が刻まれている。「 」内は、漢詩の主旨である。
明治辰巳 「明治辰巳の年(元年と二年のこと)」
實有此事 「実際にこの事(箱館戦争)があった。」
立石山上 「(そのため)山上に石(石碑)を立て」
以表厥志 「それをもって(犠牲になったあなた方の)志を表します。」
明治八年五月
箱館戦争が終結して六年を経過したこの時期でも、なお「この事あり」と、直接的な表現を避け、世間を憚っていたのである。それでも榎本は、この碑を建て、自分のために尽した多くの英霊たちを心から祀ったという。
碧血碑の「碧血」とは、中国の故事で「義に殉じた武人の血は、三年経つと碧玉(宝石)に化す」といわれている。榎本武揚にとって果すことは出来なかったが、彼らと同じ志をエゾ地まで持って来て、懸命に前を向いて進もうとしたことが「碧玉」だったのであろう。
榎本が明治政府の中で、休みなく働き続けてきたのは、「碧血碑」に眠る英霊たちに彼の作った新しい日本の姿を見てもらいたいという慰霊の気持ちがあったからである。
明治四十年(一九〇七)、榎本武揚七十一歳の時、榎本は改めて、碧血碑に祀られている御霊八一六名の名簿、榎本が知り得る全員の名前を掲載した『明治辰巳之役東軍戦没者過去帳』(函館市中央図書館蔵)を書き上げた。明治二年、戦いが終って路傍に打ち棄てられていた旧幕府軍犠牲者の埋葬に力を貸してくれた、函館市民に感謝しつつこの名簿を整理したという。榎本はこの名簿を整理した翌年、明治四十一年に帰らぬ人となっている。享年七十三歳であったという。「序文」の主旨を掲載しつつ筆を置く。
【序文(主旨)】
戊辰之役で、我が軍に属して函館その他の各地で戦死した者の遺骨は、当時は憚る所あり、これを顧みる者は、ほとんどいなかった。ここに侠客柳川熊吉なるものがあり、実行寺の住職と諮り、自ら収拾の労を取り、これを谷地頭の丘に埋葬した。
後に同志等が相諮り、一片の石碑を建て「碧血碑」と名付けた。
明治四十年七月 榎本武揚 印
(了)
