函館碧血会

24.任侠と戊辰戦争

任侠と戊辰戦争

(はじめに)

 慶応四年(一八六八)に始まった「戊辰戦争」であるが、およそ1年半で戦いは終わった。どこの戦闘場面でも、新政府軍は敗者・旧幕府軍の戦死者を見せしめとしてそのまま放置するよう、地域住民に指示していたという。地域としてはそのまま放置しておくことが社会上、衛生上問題が大きく、非常に困惑していた。そこで遺体収容の行動に立ち上ったのが任侠たちであった。箱館戦争の柳川熊吉ばかりではなく、全国の戦闘箇所でもいくつかの地域で同じように活躍した任侠が何人か存在していたのである。おそらくは、「ヒトの道に外れた」新政府側の野蛮な行為をそのまま放置できなかったのだろうと思われる。「強きをくじき、弱きを助ける」任侠としては、新政府軍に逆らう危険さと、多くの遺体を収容するという人の出来ない仕事を、命を張ってやり遂げてしまうのが「自分たちの仕事だ」とでも言っているような、鮮やかな手さばきである。いくつかの例を見てみることにしよう。

1.「鳥羽伏見の戦い」での会津小鉄

 慶応四年一月三日に戊辰戦争最初の戦い「鳥羽伏見の戦い」が始まった。旧幕府軍は新政府軍の三倍の兵力を保持していたが、新式武器や士気の高揚などで旧幕府軍は大敗を喫してしまった。この戦いで旧幕府軍はおびただしい犠牲者を出してしまった。旧幕府軍の会津藩は、京都守護職であり、新撰組も会津藩預りとなっており共に戦っていた。

 この会津藩に、任侠の「会津小鉄」も軍隊に従属して作業を行う人足(軍夫)として参加していた。会津小鉄とその子分たちは軍隊のために道路を付けたり、補修したりしていたが、官軍に敗れた幕府軍兵士の遺体が道端のあちこちに打ち捨てられていた。官軍は「逆族の死体に触れてはならぬ」と命じていた。しかし小鉄は「遺体をそのままにしてはおけぬ」と、自らの身の危険を顧みず、遺体を運んだのだという。

 遺体の収容に当たって小鉄は、新政府軍に咎められないように、道路に散乱した障害物の除去・整備を行うふりをして百十八体を収容したという。

2.「上野の彰義隊」と三河屋幸三郎

 慶応四年五月、江戸上野の山で新政府軍大村益次郎隊が総攻撃をかけた。彰義隊は僅か一日で総崩れとなり、上野の山には彰義隊の戦死者が累々と放置されたままであった。これを見兼ねた、神田旅籠町の人足宿の主人で任侠の三河屋幸三郎は、三ノ輪の円通寺に遺体を収容し埋葬したという。すべての遺体を運び出し、埋葬した後に、新政府軍に咎められたが「死んだらみな仏だ、敵も味方もねェじゃねェか…。」と啖呵を切ったという。これには新政府軍も何も言えずに引き下がったという。

3.「咸臨丸事件」と清水次郎長の場合

 慶応四年八月十九日、品川沖を脱出した八隻の榎本艦隊は房総半島沖で台風に遭遇、一行から外れた咸臨丸は破損漂流して清水港に避難したが、新政府軍に見つかり攻撃を受けた。この時咸臨丸側は丸腰で、白旗を上げていたが無視されて攻撃を受け、二〇余名が殺害された。明らかに国際法違反である。清水港に放置された遺体を、侠客の次郎長親分が夜陰に紛れて港内の遺体を収容し、埋葬したといわれる。新政府軍に呼び出された次郎長は「死ねば皆仏になる、仏に官軍も賊軍もないだろう」と罰を恐れない申し開きに御咎め無しになったという。「東海遊侠伝」の義挙の一説として語られている。

4.「箱館戦争」柳川・大岡・日隆師のチームワーク

 明治二年に箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府軍の遺体は「賊軍の慰霊を行ってはならない」との新政府軍の命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、六百名の子分に迷惑を掛けないように盃を返し、「死ねば皆仏」と、実行寺の日隆住職や奉行所を建築した大工の棟梁・大岡助右衛門と一緒に、数日間を掛けて遺体を集めては、同寺に葬った。実際には子分や住民が協力していたようだが、新政府軍の取調べには「全部独りで遺体を収容した」と言い張ったという。新政府軍の裁判で、死刑判決を受けたが、熊吉の侠気に感動した軍監・田島圭蔵の計らいで断罪を免れた。後に箱館山の麓に碧血碑を建立。榎本武揚等箱館戦争の生き残りの者たちと交流を持った。碧血碑の世話人として亡くなるまで管理を務めた。